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  浅岡(あお)先生9月から復帰
  子供との対話
  父母の広場から
  アンデルセン生誕200年(はつこ/そうよ先生)
  へぇ、そうだったのか!(けいこ/なら先生)
 
言葉の森新聞 2005年9月2週号 通算第902号
文責 中根克明(森川林)

浅岡(あお)先生9月から復帰
 ハワイに引越ししたため4月から休講していた浅岡(あお)先生が、ハワイの生活が落ち着いてきたので、9月から復帰します。
 ハワイと日本では時差があるため、時間帯は、日本時間の火・水・木・金・土曜の3:30〜6:30、10:00〜11:30、16:00〜17:30となります。郵便やメール便は、日数がかかるために使えません。作文のやりとりは、ファクスかインターネットになります。
 浅岡(あお)先生の担当を希望される方は、教室までご連絡ください。
子供との対話
 3年前、上の子が大学生になり、下の子が高校生になりました。
 いずれも家から2時間以上もかかる学校になってしまったので、子供たちは、学校の近くにマンションを借りてそこから通うようになりました。その結果、しばらく子供と離れて暮らす日が続きました。
 私も自分が大学生になったとき、親元から離れて学生寮に入り自由を満喫した思い出があるので、子供が親から離れるのはいいことだと考えていました。しかし、家の近くから出る電車のダイヤが改正になり、自宅から通うことがそれほど大変ではなくなったので、最近また子供と一緒に生活することになりました。
 しかし、一緒に暮らすのもあと1、2年です。せっかく、一緒にいるのだから、話をする時間を作ろうと思い、毎週水木金の3日の夜を話し合いの時間としました。
 親の世代の考えは古いとは言っても、それだけ年季があります。親が若かったときにした試行錯誤を子供に伝えることは、たぶんプラスになるだろうと思いました。そこで、テーマは、「親は過去を語る。子供は未来を語る」です。これなら話のネタに困ることはありません(笑)。もちろん、親の過去の話に、子供が対等に話を合わせられるわけがありません。だから、話し合いというよりも、お互いに相手の言うことを聞いているだけでいいというルールです。
 1回1回の時間は短くてもいいので、なるべく回数を多くするようにしました。話し合いというのは、質よりも量です。なぜかというと、話し合いには必ず行き違いがあるからです。話が噛みあわなくて、口げんかのようになったときも、翌日にすぐ話をする機会があれば解消は簡単です。それが1週間後に続きを話すとなると、その1週間誤解を引きずったまま暮らさなければなりません。すぐに顔を合わせられる親子という関係の長所はここにあります。
 私の母は、よく、「こんなことは、親だから言えるんだよ」と言いながら、言いにくいことをたくさん言ってくれました。中身は、ほとんど忘れてしまいましたが。(^^ゞ 頻繁に話せることと、多少の行き違いはご破算にできるというのが親子の長所です。これが他人だと、行き違いがそのまま決定的な仲たがいになってしまうこともあるからです。
 ときどき、生徒のお母さんから、「親の言うことは聞かないので、先生から『もっと本を読むように』と言ってください」などと頼まれることがありますが、私の答えはいつもこうです。「親のできないことを、他人ができるわけがありません」。親は、どんなことでも、決死の覚悟で言うことができます。他人には、そういうことはできません。
 また、親は子供のことをいちばんよく知っています。これもよく、生徒のお母さんから、「先生に『ここが悪い』と言われた」「医者にLD(学習障害)だと言われた」「テストの成績が悪かった」などと相談を受けることがあります。私の答えはこうです。「親が見て問題があれば問題がありますが、そうでないなら他人の評価を気にすることはありません」。テストの成績などは特にそうです。実は、点数に一喜一憂するお母さんは驚くほど多いです。ほとんどすべての人ではないかと思うくらいです。親は、点数ではなく、テストの中身に目を向けなければなりません。
 私のうちの子供も、小中学生のころ、ときどきひどい点数を取ってきたことがあります。また、先生にひどく叱られたようなこともあります。そういうとき、子供はやはりしょげて帰ってきます。しかし、ほとんどの場合、私は、テストの中身を見て、「点数は悪いけど、できているからいいよ」と言うか、子供の話を聞いて、「それは先生が間違っているんだからいいよ」と言うかしてきました。子供のことは、親がいちばんよくわかっています。他人の評価を気にする必要はありません。
 さて、親子の話し合いをするようにしたのには、もう一つ目的があります。それは、親子で話をするような家庭の文化を作るということです。子供のときに経験したことは、大人になっても自然にできるようになります。今、私が、大学生と高校生になった子供と話をすることを続けていけば、たぶん子供たちが親になったときにも同じように、その子供たちと話を続けやすくなると思います。
 日本人は、敗戦によって文化の大きな断絶を被りました。私の父母は、祖父母から躾や生き方に関する多くの家庭教育を受けたはずですが、私は、父母からはそういう教育をほとんど受けませんでした。当時は世相も混乱していたので家庭教育どころではなかったという事情もありますが、やはりそこには、家庭教育排除の政策がマスメディアを動員して行われていたという歴史的な背景があったと思います。
 子供が親に反発したり自己主張したりするのはもちろんよいことですが、今の社会の風潮には、親を軽視するのが格好いいと思わせるようなものがあります。私は、もし子供が親に、「うるせえなあ」などと言おうものなら、もちろんその場でぶっとばします(笑)。これは、子供の方が体力的に強くなろうとどうなろうと、親が子供に対して果たさなければならない責任のようなものだと思います。
 先日、高校3年生の子供が、友達を5人ほど連れてきて泊まったことがあります。みんな、明るく礼儀正しい、いい子たちばかりでした。しかし、私は、みんなの名前も知りませんし、話をしたこともありません。そこで、みんなが遊んでいる途中に、「じゃあ、それぞれ自己紹介でもしようか」と声をかけました。ところが、驚いたことに、みんな迷惑そうな顔をして遊び続けるだけで生返事しかしないのです(笑)。たぶん、泊まった家の人からそういうことを言われるのは初めてだったのでしょう。更に、わが家のほかの家族も迷惑そうな顔をしています。しかし、全員が反対する中で敢えて実行するのが父親です。無理矢理みんなを席につかせ、順に自己紹介をしました。もともと素直な子供たちなので、どの子もしっかり話をしました。
 人間が、だれかの家に行って、食事をして遊んで泊まって帰るというときに、その家の家族と話もしないし名前も知らないというのでは、犬や猫の集まりと同じです。ところが、そういう文化が今の日本にはないのです。文化の不在に比例して、人間は動物に近づいていきます。
 現代の親は、伝承すべき家庭の文化がなくなった中で子供の教育をしなければならない初めての世代です。だからこそ、自分の力で家庭の文化を作るつもりで子供たちの教育に取り組まなければならないのです。文化という視点がなければ、結局、成績や学歴でしか子供を育てることができません。そのように育った子供たちはやがて同じように、収入や肩書きでしか人を見られなくなるでしょう。
 日本の社会をよくする一歩は、おおげさなようですが、家庭の中から生まれるのだと思います。
父母の広場から
本の紹介を(小4父母)
 毎週、とても楽しみにしている様子です。電話で先生とお話しすることもその一つです。今、4年生ですが、読書にかたよりがあり、物語がほとんどです。事実に基づくものには手を出しません。今はまだよいのですが、高学年になってからが少し心配です。今後、先生の方から子供にアドバイス(本の紹介)などあったらよいななどと思っております。
子供の好きな本と親の読ませたい本を並行して(教室より)
 読書は、他人がすすめたから読むようになるというものではありません。それは、親でも先生でも同じです。読ませるためには、そのための本と時間と場所を確保して、勉強と同じ位置づけで読ませる必要があります。
 もし、子供が自分で読むにはハードルが高いと思われる場合は、お母さんが毎日読み聞かせをしてあげる形でもかまいません。最初は難しく思えた本も、読むにつれて興味がわくようになることが多いです。まず読むことが先で、好きになるのはそのあとです。
 ところで、読書の基本は、自分の好きな本をたくさん読むことですから、親が読ませたい本だけにこだわると、どうしても読書量が少なくなります。一方で楽しい本を読みながら、他方でためになる本を読むというようにしていくとよいと思います。
長文集について(幼中父母)
 長文集、楽しく読んでいますが、1〜2週間で全部読み終わってしまいます。もう少したくさんの長文があればなあと思っています。
長文集は、反復して読む勉強(教室より)
 貝原益軒が考え出した勉強法に、百字の文章を百回ずつ読むというものがあります。益軒は、そのようにして論語や孟子を百字ずつ読むことを勧めました。
 昔の勉強法は、同じものを何遍も繰り返して血肉にするというスタイルのものが中心でした。剣道の素振りなども同じ発想だと思います。同じ動作を何度も繰り返していると、無意識のうちにもその動作ができるようになるというのが繰り返しの効用です。
 ところが、戦後の教育は、理屈で理解することが優先されたために、反復で身につける学習は敬遠されてきました。そのため、今の親の世代は、長文音読のような勉強を子供のころにしていません。そこで、子供が、「こんな同じのを繰り返しているのは嫌だ」と言うと、それもそうだと思ってしまうのです。
 しかし、ふだんの勉強が知的理解中心になっているからこそ、言葉の森の長文音読は、単純な反復学習として位置づけて続ける価値があると思います。
 私のうちの子供も、同じものを読んでいるとすぐに飽きて、ふざけて読んだり抑揚をつけて読んだりしていました。そういう読み方でもかまいません。何しろ同じものを続けて読んでいると、その文章のリズムや言い回しが自然に身についてきます。それが作文の勉強のいちばんの土台になります。
 1〜2週間で全部読み終わったら、また最初から繰り返し読み、3ヶ月の間に、何十回も読むようにしていってください。
 
体験談のページを(小1父母)
 言葉の森新聞以外に受講されている方の体験談(受験と作文の関係など)を読めるようにしていただくと参考になり、うれしく思います。
掲示板とメーリングリストなどを利用して(教室より) 
 言葉の森には、父母・生徒・講師のメーリングリストがありますが、まだほとんど活用されていません。
 今後、父母の広場とメーリングリストを連動させる形で、父母どうしの交流も深めていきたいと思っています。
アンデルセン生誕200年(はつこ/そうよ先生)
 先月はかなり興奮気味に、アゲハの羽化を待ち望む気持ちを書いたんだけど、あれから先生は望みどおり羽化に立ち会うことができたんだよ。
 生まれたてのチョウチョの羽はなんと色鮮やかなことか。羽の柄が左右対称なことにもいまさらながら驚きました。水分をふくんだ羽はどうやってかわかすのか、くしゃくしゃになった羽はどうやってピンとのばすのか。先生は2時間近くチョウの羽の美しさ、不思議さにひたることが出来、チョウの変態の完結を見守りました。私をひと月近く夢中にさせたあのアゲハは、今どこをとんでいるのかな。青い空を見上げては、きれいな花を見かけては、私から去っていったちょうをおもっています。今も元気にこの夏空を飛び回ってくれているといいな。


 さて、先生にはもう一匹気になっているちょうちょがあります。それはリボンにつながれたまんまの白いチョウです。ピンときました?そう、童話の王様、アンデルセンの代表作「おやゆびひめ」のあの白いチョウです。お話の中のチョウです。
 スイレンの葉っぱにのったまま、おやゆびひめは川を流れています。そこへ白いチョウがやってきます。おやゆびひめはうれしくて、腰にまいていたリボンをはずしてスイレンの葉っぱとチョウに、リボンの両端を結びました。ちょうとおやゆびひめはしばらくの間、川くだりを楽しみましたが、おやゆびひめは突然コガネムシにさらわれてしまいます。リボンにつながれたままのちょうちょはそのまま川にながされていきます・・・。
 チョウはその後どうなったんだろうね。うまくリボンをほどいて、おやゆびひめのいないすいれんの葉っぱから逃げ出せたのでしょうか。しばらくすればチョウはおなかもすいてくるでしょう。羽だって休めたいでしょう。川は果たしておだやかなままでしょうか?どこかでうずを巻いていて、はすの葉とチョウをいっしょに川底に飲み込んでしまうかもしれません。また鳥が、いつまでもとんでいかないちょうを思うまま食べるかもしれません。おやゆびひめは最後に幸せになったのは分かるんだけど、あのチョウは幸せになれたのかしら。

 今、NHKで「雪の女王」というアニメをやっているけど、あのお話の原作もアンデルセンですね。今年はアンデルセン生誕200年の年。1805年にデンマークで生まれました。
 本屋さんに行けば、アンデルセンの絵本がたくさんならんでいるのはそのせいですね。生誕200年を記念して復刊されたもの、新刊のもの、アンデルセン童話を選んで買える年です。アンデルセンはたくさんのお話をかいてくれたから、お気に入りのお話をみつけてみてね。そのお話はすてきな友達として、みんなの心の中にそっとずっと生きていくんだよ。


お母様へ。どんな本をいつ与えるか難しく思うときがあると思います。そんなときは、このように今年はアンデルセン生誕200年だから、ということでなにかひとつ買ってあげるのもいいと思います。とかく新刊の絵本に目が向きがちですが、やはり読みつがれるお話には力があります。絵本の古典にいざなう良い機会かと思います。母親になって「マッチ売りの少女」など読み返すと、ハンカチ必携、号泣必至です!ついでに、岩波少年文庫の「アンデルセン童話集2」に入っている「ある母親の物語」も是非読んでください。母親の魂の真髄がそこにはあります。
 
へぇ、そうだったのか!(けいこ/なら先生)
 私たちは、学校でやった勉強や、本で読んだことなどから、たくさんの知識を身につけます。お父さんやお母さんから教えてもらったことを、まねしながらやることで、物事のうまいやり方を覚えます。それは知らず知らずのうちに、自分の中で「当たり前のこと・正しいこと・常識」というようになり、それをもとにいろいろな思考を進めたり判断をしたりします。しかし、ずっと「こうだ」と思ってきたことが、実はそうではなかったとわかり、少なからずびっくりすることもあります。

 最近読んだ新聞記事に、「傷口治療法が変化した」というものがありました。私が子どものころは、転んだりしてすり傷ができると、「きちんと消毒しないと、傷口が化膿(かのう)するよ。」と言われ、とてもしみる消毒薬をぬっていました。そして、ガーゼをあててテープでとめるのが、ふつうのことでした。よくあるばんそうこうも同じような考え方です。
 ところが、消毒薬をぬりすぎると、キズが治ろうとする力まで奪ってしまうそうです。そして、化膿の仕組みは、消毒をするかしないかとは、あまり関係がないらしいのです。加えて、ガーゼをあててしまうと傷口を乾かすことになり、これが傷の治りを遅くする原因にもなるそうです。今まで、痛いのをがまんして、やっていたことは何だったのか! 実際に、新しい考え方を用いたばんそうこうも発売されているとのこと。(商品名:キズパワーパッド)今度、薬局でチェックしてみることにしましょう。

 もう一つ、話は今から5000年ほど前にさかのぼります。日本の古い歴史に「縄文時代(じょうもんじだい)」と「弥生時代(やよいじだい)」があるのは知っていますか? ちょうど、東京の国立科学博物館で8月31日まで「縄文VS弥生」という展覧会をやっています。日本の主食である米の栽培は、弥生時代に朝鮮半島から伝わったと言われています。歴史のテスト勉強では「水田稲作→弥生時代」と暗記するところです。
 しかし、この7月に縄文中期の土器に稲作の痕跡(こんせき)が見つかったと、新聞で報道されました。おそらくは、広い範囲で稲作が行われるようになったのは弥生時代でしょうけれど、それより以前(つまり縄文時代)に稲作を採り入れた地域もあったということです。その土器は、熊本にある「大矢遺跡」というところから発掘されました。
 私たちが今正しいと思っていることは、今までにわかっていることから導き出せる、一番合理的な答えでしかないのです。何か新しい材料が一つ見つかると、今までの常識は、これからの非常識になることもあるのです。知識を蓄えることは大切ですが、その知識に縛られすぎず、新しい発想・違う視点で物事を見ていくことも同じくらい重要なのでしょう。このことに関係の深い長文が、言葉の森のテキストに見つかりました。ネコヤナギの山の3月3週分の長文です。インターネットをつないでいるのであれば、ぜひ、ホームページの「課題の岩」で確認してみてください。
 ちなみに、熊本の「大矢遺跡」は、私の生まれ育った家から歩いて15分くらいのところにあります。小さいころは、そんなすごいものが埋まっているとは知りませんでした。新聞記事で知ったくらいです。おそらく、地元の人が一番驚いていることでしょう。(笑)この夏、帰省のついでに足を運んでみようと思っています。
 
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