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  3月から受講料自動振替日が変わります。
  上手な字を書くには
  もち焼き修行(うさぎ/きら先生)
  濃く深く長い読書(ふじのみや/ふじ先生)
  息をするだけで・・・(こう/ふつ先生)
  笑顔(まあこ/ゆた先生)
  今どきの作文(みのり/まこ先生)
 
言葉の森新聞 2006年2月3週号 通算第923号
文責 中根克明(森川林)

3月から受講料自動振替日が変わります。
 3月から、受講料の自動振替日が変わります。
 郵便局の場合は、3月6日26日→3月15日となります。銀行の場合は、3月12日→3月27日となります。(いずれも当月分)
 よろしくお願い申し上げます。
上手な字を書くには
 上手な字を書くにはどうしたらいいかというご相談を受けました。
 まず私自身、字はとびきりと言っていいほど下手でした。(笑)たぶん小中高とクラスでいちばん下手だったと思います。今でも中学生のころに書いたノートを見ると自分でも読めないものがあります。就職試験でも「君の字は下手だねえ」と感心されたぐらいです。
 字の形は、子供が最初に書く時期にインプリンティングされるようです。ですから、小学校に上がる前に子供が興味本位で字を書き始めたらそのころにていねいな字の書き方を教える必要があります。そうでないと自己流の字が土台になってしまいます。ですから、字の下手な子は、ある意味で成長が早かったために自己流の字が先に身についてしまったとも言えます。
 字の上手下手と学力は全く関係がありません。しかし、同じ文章であれば字が上手な文章の方が上手に見えることは確かです。字の下手な人は、社会に出てからいろいろな場面でこういうハンディを感じると思います。
 しかし、欠点はある意味で常に長所の裏返しです。私は字の下手な分、パソコンで文章を打つことに早くから習熟しました。また、私は計算が苦手でした。よくプラスマイナスを間違えたり×と÷を勘違いして答えをミスすることがありました。しかし、その分、人間は常に間違えるものだという人生観が早くから身につき、事務的な作業でミスがあるとそれを注意不足のせいにせずにシステムを改善することで対処するようになりました。また、よく聞く話ですが、字の下手な人が書いた手紙は、字の上手な人が書いた手紙よりも心に訴えることがあるようです。すべて、ものごとは考え方次第のです。
 さて、超のつくほど字の下手だった私が、一時期上手になったことがあります。それは特に不思議なことではなく、ペン習字の見本を数時間かけてゆっくり練習しただけです。ゆっくり書けば上手に書けるということがそのときによくわかりました。しかし、日常生活は忙しいので、急いで書くとすぐに元の下手な字に戻ってしまいます。これが字の上達を妨げる最大の障害です。
 ここからわかることは、子供の字を上手にする場合も、字を書く量が少ない小学校低学年までのうちがカギだということです。小学校高学年になると字を書く量そのものが増えてくるので、いくら上手に書く練習をしても、それを日常生活の中で生かせなくなります。
 ただし、簡単な方法としてひらがなだけを徹底して上手に書く練習をするという方法もあります。字の読みにくい子供の多くは、いちばんよく使うひらがなが不自然なことが多いからです。その中でも、その子特有の癖のあるひらがながあります。それを見本どおりに書くようにするだけでだいぶ印象が違ってきます。
 教育の基本は、漠然と全体をよくしようとするのではなく、ポイントを絞ってよくしていくことです。ですから、お母さんが子供に注意する場合も、「もっと字を上手に書きなさい」と言うのではなく、「○と○の字をこの前練習したとおりに上手に書こうね」と言う方が効果的です。
 ペン習字の本でどういうものがいいかというのは人によって好みが違いますが、実は教科書の教科書体の字はそれ自体が書き方の見本となります。教科書の字をまねしてひらがなの練習をすれば、それでひらがなを上手に書くコツがわかります。
 「字を上手に」「漢字を使って」などの注意するときに気をつけなければならないことは、欠点を直すことを主眼にしてはならないということです。長所を伸ばす勉強は明るい勉強ですが、欠点を直す勉強は暗い勉強です。そういう勉強が必要なときもありますが、いつも真面目に暗い勉強をしていると、子供の学力は低下します。これは不思議でも何でもありません。苦痛を感じながら身につけたものは忘れるのも早いからです。
 みなさんの子供時代を思い出してみるとよくわかると思います。小学校時代、生き生きとしていた学年のときはたくさんの思い出があります。逆に暗く沈んでいた学年のときはほとんど思い出がありません。勉強も同じです。楽しく勉強して得た知識は記憶に定着します。苦しんで勉強して得た記憶はどんどん記憶から抜けていくのです。ですから、逆説的に言えば、「もっと漢字を書きなさい」と叱られて勉強している子よりも、そういう注意を受けずにのびのびとひらがなで書いている子の方が長い目で見て学力が伸びるのです。もし両方の長所を持ちたいと思ったら、欠点を注意する際もユーモアのあるやり方で子供をうまく導いていくことです。このあたりになると、注意する側の人間の幅が大事になってくると思います。
もち焼き修行(うさぎ/きら先生)
 昨年の暮れから続く、寒風と雪に鍛えられるように新学期が始まりました。受験の時をまさにむかえようとする人もいます。三学期は、いちばん身の引き締まるスタートですね。
 でも、寒い日だからこそ、あったかい家で家族の顔がそろうと芯からほっこり温もります。そんなとき、ふと「ほんもの」の幸せってこういうことなんだと感じます。幸福論を言うのではないのです。「ほんもの」のことをしみじみ考える時間だなあと思うのです。
 この冬、暖房器具の買い足しを思いついて、あれこれ悩んだ挙句に買ったのが、ストーブでした。直接火が燃えていて、じんわりとひろがるぬくもりは思ったより強力です。しかもお湯が沸きますし、おでんの味もごとごととしみわたります。電気を使わないで暖をとれることが、いざという時に期待されるということで、最近は人気の商品なのだそうです。
 「おもちも、するめも焼けるし、焼き芋もできるね。」
と、食いしん坊の私の言葉に反応して、子供達がさっそくおもちを焼き始めました。ひい、ふう、みい、よお、いつつばかり、丸餅がのっかります。おもちの前にかわいい笑顔が並んだので、親バカとしてはシャッターチャンスをねらったのですが、事態はそれどころではありませんでした。
 ぷすぷす、もくもく……。
 「ほら、もっとひっくりかえして。」
 「まだ、焼けてないよう。」
 「おもちは、貧乏な人に焼かせろっていうでしょう。」
 「なに? それ?」
オーブントースターで焼く事に慣れていた子供たちは、なんとおもちを焼くコツも楽しさも知らなかったのでした。そうして、そのことをバカな母親は知らなかったのでした。
 「焼け具合を見て、場所もローテーションすればいいじゃない。」
 「そおかあ! 気付かなかったあ。」
一から学ぶ「もち焼修行」でお恥ずかしい限りですが、この正月にまちがいなく子供たちは生きた勉強をしました。「ほんもの」のなせる業です。ストーブは、いろんなことを教えてくれました。

 あまりに便利で高度になりすぎた世の中では、もっとシンプルにふつうを心がけることで見えてくるものがあります。そしてこの視点は、作文を書くときにとても役立つのです。身近な家族の話題を書くときも、社会論や文明論を書くときも、かけている「眼鏡」はおんなじです。「ほんもの眼鏡」をつかってみましょう。

 
濃く深く長い読書(ふじのみや/ふじ先生)
 昨年の末は、ことのほか寒波がきびしく、私の住む町でも約90年ぶりにまとまった雪がつもりました。あちらこちら、建物のすみにちょこんとならんだ雪だるま。雪がめずらしい土地に住む人ならではの、遊び心ですね。

 さて、先月の“ふじばたけ通信”で、海外の名作の新訳を手に取ってみようとおすすめしたのを覚えていますか? もう読んでみたという人がいたら、うれしいな。
 私は、年始に家族で父母の住む家をおとずれました。高校生の娘もいっしょです。お正月料理を食べたり、たわいないお正月番組をちらちらと見たり、どこの家でもよくあるお正月の風景。娘はすごく退屈そう……やがて、別の部屋にひきこもって出てこなくなりました。
 その部屋は、昔、夫の亡き父が使っていた本棚のある部屋です。重たい書棚があり、古い本がたくさんならんでいます。茶色く変色した表紙の本は、「世界名作全集」をはじめ、今どきの子どもたちはあまり手に取らない題名ばかり。することがない娘はそういう本を引っぱり出してきて、ひたいを埋めるようにして読みふけっている様子です。題名をのぞくと『アッシャア家の崩壊』と、ありました(「シャア」の表記に古さを感じるなあ)。
 「あれ、めずらしいのを読んでるね。ハウス物ホラーだと思った?」とよけいな口をはさむと、「でも、意外におもしろいねんで」(関西弁)と、また本に顔をもどして読み続けています。田舎の家の南向きの縁側でねそべって、結局、おいとまするまでの数時間、ほとんど同じ姿勢で読んでいたようです。帰るときには、おみやげに、全集のうちからお気に入りを数冊。それから、もう20年も前の文庫版の司馬遼太郎の『竜馬がゆく』全8巻。お年玉ももらって、ホクホク顔の娘。帰宅後も、再び読書タイムスタートです。
 そのようすに、私は心底、「うらやましいな」と思いました。おみやげに本をたっぷり手にできるから、お年玉がもらえるから。それだけではありません。
 本「だけ」とつきあえる時間があるからです。

 ほとんどの大人がそうだと思いますが、私も、みなさんに読書をすすめる立場でありながら、本に心底没頭して読む時間はほとんどありません。読むときは、必要に迫られて、関心にひっぱられて、です。自分主体の読み方といえば聞こえはいいのですが、偶然の出会いで全然知らない世界の中に放り込まれて、われを忘れるような気持ちになるような読みかたは、ほとんどできていません。大人になると、読書だけをしていればよいという時間のすごし方は、あまりできなくなるのです。それでもまあ、読書は趣味のひとつだから、しばしば図書館に行って本を借りてくる。しかし、悲しいことに半分も読めないうちに、返却日が来てしまう。じつは昨年は、このくり返しでした。なんだか、ものすごくおいしそうな珍しいごちそうが目の前にあるのに、準備や片づけを気にしながら、一口食べただけで下げられてしまう……そんな感じ。1度はおなかいっぱいになるまで食べて、あとはのんびり余韻(よいん)を味わいたいな……それじゃ牛みたいに太ってしまうけど。(笑)

 というわけで、今年最初に考えたのは、「濃く深く長い読書をしたいな」、ということ。かといって現実にはさまざまなスケジュールがスタートしているわけで、この目標は夢といってもいいかもしれません。初夢、正夢となるでしょうか。
息をするだけで・・・(こう/ふつ先生)
「障害者自立支援法」という法律を知っていますか? 私も新聞で読んだだけで実はくわしいことは知りません。インターネットで調べてみると
「身体・知的・精神の各障害者への福祉サービスを初めて一元化するもの。増え続ける在宅サービス利用に対する国の支出を義務化する一方で、原則1割の利用者負担を盛り込んでいる。」法案だそうです。
 先生の周りに障害者の知人はいません。この法案も正直全く興味を引かないものでした。「ふーん。そうなんだ。」という感想を持ったくらいです。
 ですが、新聞記事の中にあった一言で気持ちは少し変わりました。
「たとえば、息をするだけでお金がかかったり、私たちのように必要なところに出かけるにしても健常な人ならお金がかからないところをお金がかかったりと、必要以上にお金がかかるのはおかしいと思う。」
 息をしたり、トイレに行ったり、自分が毎日普通にしていることにお金を取られる法律? 自分に今は障害がないからと無関心でいいはずがない。活動するほどの意志がなくても「知っておく」だけでもちがうんじゃないかと思いました。

 世の中にはたくさんの情報があふれています。自分に必要な物とそうでない物をきちんと分けていかないと必要なものも分からなくなるくらいです。
 でも、「あれ?おかしいんじゃない?」「それって変だな。」と思うゆとりとそう感じる心は大切にしてほしいと思います。
笑顔(まあこ/ゆた先生)
 新しい年、みなさんは何か目標をたてましたか? 勉強、スポーツ。自分の得意なこと、好きなこと。苦手なことの克服、はじめてのことにチャレンジ。などなど、大きな目標を具体的に考えた人もいるでしょう。早寝早起き、毎日勉強、毎日練習など、日ごろの生活態度を目標にした人もいるかもしれませんね。

 今年の私のテーマは「笑顔」です。去年、紀宮清子さまがご結婚なさったとき、終始絶やさない微笑みに感動して、笑顔に興味がわいたのです。なんと凛とし、そして穏やかな笑顔なんでしょう。時と場合によっては笑顔でも人を不愉快にさせることがあります。しかし、相手を思いやる気もちが表情に表れたとき、それは決して誰も傷つけない穏やかな微笑みになるのだと気がつきました。その笑顔に人は癒されるのです。
 また、最近は「笑い」の効果が医学的にも注目されているそうです。誰にでもできる笑顔で健康になれるのなら、笑って損はありませんよね。(o⌒∇⌒o)
 息子が赤ちゃんだったころ、写真を撮るときにカメラをかまえてニッコリ笑うと、とびきりの笑顔を返してくれたものです。笑顔は相手の笑顔も誘います。一つの笑顔からたくさんの笑顔を生むこともできます。上手に笑って生活できるように意識していく。これが今年の目標です。

 去年、私は「物理に興味を持つ年」としていました。2005年は、アインシュタインが有名な論文を発表した年から100年目を記念した「世界物理年」だったからです。もともと学校の勉強の物理は大の苦手だったのですが、大人になって科学の不思議を純粋におもしろいと感じられるようになったので、身のまわりの不思議とアインシュタインを意識して過ごしてみたのです。
 結局、実験教室に参加しても「すっごーい! ふっしぎー!!」だけで、その原理は理解できませんでしたし、アインシュタインを紹介するイベントに参加してもやはり「相対性理論」はよくわかりませんでした。しかし、とにかく不思議とはワクワクするものだということや、アインシュタインは日本が大好きな優しくておもしろいおじさんだったなどということがわかり、楽しい発見だらけの一年でした。 大きな成果を上げなくても、発見したり味わったりするだけで人生が楽しくなるんですね。
 小さなことでも意識していることがあると、チャレンジのきっかけが生まれますし、充実した時間をすごすこともできます。しかし反対に何の目標もなかったら、新しいことに出会うチャンスも減ってしまいます。

 みなさんの目標は何でしょう。一年先に向けた大きな目標でも、今日・明日に掲げた小さな目標でもかまいません。ぜひ何か目指すもの、意識することを持って、2006年を有意義に過ごしてください。


                         
今どきの作文(みのり/まこ先生)
 子どもたちの作文を読みはじめて間もないころは、とまどうことが多かった。なぜなら、自分自身が子どものときに書いていた文とはずいぶん違っていたからです。おうちの人から「ふざけたような文章しか書けない。もっときちんとした文章が書けるようにしてほしい。」といった要望をしばしば受けたものです。
 ふざけたような文章とは、おそらく話し言葉のようなラフな感じの文のことで、きちんとした文章とは、わたしが子どものころ学校で書かされていたような少々かたい感じの作文のことではないかと思います。小学校低学年はもちろん、高学年から中学生になってもいわゆるメル友に宛てたような言葉づかいで作文が書かれていたりします。
 子どもたちは、かぎかっこの中の会話文の中だけにとどまらず、実に自由にふだんのことばを駆使します。まんがや好きな本の言葉づかいに影響されているものもあります。そうしながら自分の考えや思ったこと、したことをできるだけ忠実に表現しようと苦心していることがうかがえます。思いがけない斬新な言葉づかい、テンポのよさや意外な展開に拍手をおくりたくなることもあります。
 わたしは、子どもたちが生き生きと書いた作文であれば、別にきっちりした文章でなくてもいいと思っています。もちろんかたい文章が書けなくてもいいと思っているわけではありません。ですが、きちんとした文が書けないということが問題なのではないと考えています。
 文章というものは、丁寧なものや堅苦しいものから親しみやすくユーモアあふれるものまで多種多様に変身することができるということを知らないというところに問題があると思うのです。
 服装と似ています。山登り、受験の面接、パーティにはそれぞれふさわしい服装があるのと同じように、文章も時と場合、伝えたいことがらによってぴったりのことばを選ぶことができたらおしゃれでかっこいいと思う。それが相手に対する思いやりにもつながっていきます。
 話しことばでしか作文を書けない人は、一つしか服を持っていない人と似ています。山登りにも面接にもパーティにも同じ服を着ていくしかできません。これがおしゃれじゃないことに気づくことが第一歩です。だからといって、人から押しつけられた似合わない服を着る必要なんてないことは言うまでもありません。お気に入りは、自分で見つけなくては何にもならない。
 そこでいつもの十八番。書くより読むことを大切にしましょう。おしゃれに変身するには、いろいろな文章を読むのが一番だからです。書けないとなげく前に、かっこいい文章を読む。好きな文章を読む。これに勝る方法はありません。
                             

 
                         
 
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