言葉の森新聞 編集用
印刷設定:A4縦用紙 :ブラウザの文字のサイズ:最小 ブラウザのページ設定:ヘッダーなし フッターなし 左余白25 右余白8 上下余白8
  読書の習慣をつけるには(その2)
  桜守りの言葉から(すずらん/おだ先生)
  むがーし・むがし(しろ/しろ先生)
  音読が脳の活性化によい(はむはむ/はむら先生)
  電子辞書とぶ厚い辞書(ゆっきー/かき先生)
 
言葉の森新聞 2006年5月2週号 通算第934号
文責 中根克明(森川林)

読書の習慣をつけるには(その2)
 前回、面白い本の魅力のようなことを書きました。しかし、それはあくまでも入口の面白さです。その子の心の中にいつまでも残るのは、面白いか面白くないかという基準とは別の、感動を与えてくれる本です。
 小学校中学年の子に、「宇宙人のいる教室」(さとうまきこ著・フォア文庫)をすすめると、大体どの子も一挙に読んでしまいます。この本には、それだけ読む人をひきつける力があります。また、高学年で読む力のある子は、「モモ」や「はてしない物語」(ミヒャエル・エンデ・岩波書店)に熱中します。
 こういう本はどこで選べばいいのでしょうか。一つは、フォア文庫、講談社青い鳥文庫、岩波少年文庫、偕成社文庫などのシリーズ化された本の中から選ぶことです。これらの本は、これまで人気のあった本を再編集して作られているので、当たりはずれがありません。ただし、出版社によっては、良書をシリーズ化したというよりも、売れそうな本をシリーズ化したと感じられるものもあります。売れていても内容のない本はあります。
 内容のあるなしの基準を、私は書かれている文章の質で判断しています。会話が多く、説明が少ない本は、題材の面白さで読み手をひきつけている本ですから、読んだあとあとに残るものがあまりありません。また、同じ説明でも子供向けに簡略化したものでなく、本気で書かれているものを選ぶべきです。
 以下は、私の個人的な感想ですので、実際の本は自分で手にとって確かめてください。
 フォア文庫はいい本を出していますが、漢字に一部しかルビがふられていないために、低中学年の子には読みにくく感じるものもあるようです。シリーズの選択は良心的で信頼できます。
 講談社青い鳥文庫は、すべての漢字にルビがふられています。これは出版社の見識だと思います。
 ルビは、戦後の民主化で否定的にとらえられてきました。難しい漢字にルビを使って読ませるよりも、易しい表現でルビなしでだれにも読める文章を書くことが民主化だと考えられたためです。しかし、そのために日本人の語彙力や読書力がなかり低下しました。今後は、このようにルビをつけて難しい漢字をそのまま読ませる形が主流になってくると思われます。
 講談社青い鳥文庫は、良書というよりも売れている本を基準にしたシリーズのようなので、中身は実際に読んで確かめる必要があります。
 同じ講談社から出ている火の鳥伝記文庫も、シリーズとしてのボリュームはありますが、中身は著者によって玉石混交です。有名な人の伝記でも、書いた著者の力量によって薄っぺらなものになってしまうことがあります。逆にあまり有名でない人の伝記でも、著者によってはかなり深く書き込んでいるものがあります。これらも実際に親が読んで確かめる必要があります。
 偕成者文庫は、昔からの定評のある本をシリーズ化したもののようです。どれも良書ですが、体裁が古いので、子供がすすんで手に取ってみたくなるような本ではありません。親が与えて初めて読むようになる本です。
 ちくま少年図書館という百冊のシリーズは、中学生高校生向けに編集された説明文の名著です。しかし、書店にはほとんど置いてありません。読むとしたら、図書館を利用しなければなりません。
 高校生や大学生になると、岩波文庫の古典を読む機会が出てきますが、実は岩波文庫はあまり読みやすくありません。例えば福沢諭吉の自伝などでも、岩波文庫は正しく旧かなづかいで書かれているために読むのに苦労します。同じ本でも角川文庫の場合は現代語に訳されて書かれているので楽に読めます。しかし、現代語訳は程度が低いと見なされるためか、角川文庫の方は既に絶版になっています。手に入れるとすれば、アマゾン(インターネットの書店)で古本を注文する形になります。
 今、書店に出ている本は、どれも物語が中心です。物語の方がよく売れるからです。フォア文庫で「生きものばんざい」(吉川順平著)といういい本がありましたが、説明的な文章のためにあまり売れなかったので今は品切れになっています。
 いい本にめぐり合うためには、図書館を利用するのがいちばんです。そして、感銘を受けた本は手元に置いておきたくなりますから、中古の本を購入し読み直すという読み方をしていくのがいいと思います。

 以下は雑談です。
 日本の文学界や思想界は、理科の苦手な文科系の人たちに占められているために、理科関係の良書がきわめて少ないという特徴があります。これは既に丸山真男氏が「日本の思想」(岩波新書)の中で指摘していることですが、自然科学と正面から切り結ぶことができるようなパワーのある文章家がきわめて少ないのです。数学や理科が苦手だから文系に進むという進路選択が改まらないかぎり自然科学の良書が少ないという状況は変わりそうもありません。
 これは、高校生や大学生や読む本でも同じです。大学入試に、自然科学系の文章としてよく出題される著者がいますが、文章が難解で一読して頭に入りません。理科の分野を深く分かりやすく書ける人の層がきわめて限られているのです。
 大人の本でも事情は似ています。現代の哲学書などでも欧米の場合は自然科学のバックボーンがあって書かれているものが多いのですが、日本の哲学書は自然科学の基礎知識がなくて書かれているというのがむしろ普通です。高校の授業で行われる理系と文系の分離がずっと尾を引いているのです。
 これは、理科や数学の勉強の仕方が間違っているからです。今学校で行われている理科や数学は、試験で差をつけるために行われています。これはもちろん、多かれ少なかれほかの科目でも同じです。しかし、理科や数学は、特に試験で差をつけやすいので、更に差をつけるための勉強に拍車がかかっています。差をつけるための勉強ですから、わからない子はますますわからなくなります。そこで、文系と理系に早めに分けた勉強が行われるようになっています。この状況を改善するためには、理科や数学の勉強をもっと魅力のあるものにし、高校を卒業するまで理科と数学は必修とすることが必要になると思います。
 私は高校時代は素直だったので、受験する科目に関係なくどの教科も真面目に勉強しました。しかし、物理の先生とだけは相性が悪く、物理の時間は読書をしていました。(笑)今考えるともったいない時間の過ごし方をしたと思っています。
桜守りの言葉から(すずらん/おだ先生)
 今年も、きれいに咲いている桜便りがとびかい、この季節はなんとなく桜のことでそわそわしてしまいましたが、みなさんの所はどうでしょうか。日本全国、桜に包まれる季節が続きますが、北海道や東北地方の桜の季節は少し遅くて4月下旬ですから、長い日本列島は桜を長く楽しめそうですね。

 私の住んでいる鎌倉にも、桜の名所と言われるところがありますので、この季節はお天気が許す限り、あちらこちらへお花見にでかけました。でも、シートを敷いてお弁当を食べてというお花見ではなく、桜並木をブラブラと歩くお花見です。今年のお花は「こうだとか、ああだとか」言いながら見ていると、毎年同じように咲いているのでしょうが、咲き方にちがいがあることが分かります。今年はどの場所も見事な花をつけていて、桜の花をじゅうぶん楽しむことができました。
 桜の花が咲いている季節は、どうして気持ちが桜に向いていくのか考えてみると、冬の間はまるで枯れ木のように目立たない木が、春らしくなってくるにつれ、少しずつ、少しずつ花芽をふくらませ、ある日桜並木のあたりがボーッとピンク色(桜色でした)になったかと思うと、一斉に花で賑やかな木に変身していますね。まるで手品で花を咲かせたような、ドキドキ感があるように思ってしまいます。

 きれいに咲いた桜を見ていられる期間は短いのですが、桜のことならこの人が一番という佐野藤右衛門さん(京都在住・桜守16代目)のお話が載っている記事が目にとまり、読んでみました。さすがに桜守の人だけあって、優しい言葉で桜について語っていますので書いてみます。

「ほら、いま咲いている花の隣りの芽は、蕾(つぼみ)になって、半分風船をふくらませているように、プーッとなってますわ。これが「笑いかけ」ですわ。いまにも笑いだしそうな顔に似とるやろ。(略)こっちも思わず微笑み(ほほえみ)たくなるやろ。」

 またある本では、「花見でも、満開の時に行ったら、あとは散るだけや。五分咲きから八分咲きの時に行けば、これからどう咲くやろうという楽しみがある。そやから、何でも早め早めに行動せんと。それを桜が教えてくれるんや。」とも言っています。
 桜を知り尽くした人の言葉として、優しく心に残りましたが、いかがでしょう。
 
 今年のお花見は、桜の花の笑いかけに気持ちを和ませてもらいながら桜巡りをし、幸せな気分をたくさん味わいました。
 このお花見が終わると、さあ、これから新しい季節の始まり、新しい学期の始まりだという気持ちになってきますが、言葉の森でも、それぞれ進級をした課題でがんばっていきましょう。
  
 
むがーし・むがし(しろ/しろ先生)


 「むがーし、むがし、あるどごろに、じいちゃんとばあちゃんがいたんだど。あるとき、じいちゃんが、『山さ行ってくっがんなー。』って出がげるど、ばあちゃんは、『んじゃ、おらは川さ洗濯に行ってくっがんなー。』って、川に行っだんだど。」
 そういう祖母の話に、子供たちは目をきらきら輝かせて聞き入っていました。

 これは、先月、私が実家の福島に帰省した際の光景です。十八歳になり東京に出るまで、私は、両親と妹、弟、祖母と共に一つ屋根の下で暮らしました。私が小学校高学年までは祖父もおりましたから、七人という大家族でした。夏休みや冬休みには従兄弟たちも遊びにきて、それはそれは賑やかだったものです。そんな中で、私たち子供が一番好きだった時間が、「おばあちゃんの昔話」。桃太郎や、金太郎、はなさか爺さんにかぐや姫、どれももちろんおもしろい内容でしたが、それ以上に「むがーし、むがし」という東北弁で語られる祖母の昔話は、何とも心地よく、まるで音楽を聴いているようでした。
 そんな祖母も今年で八十六歳。足腰が弱く、物忘れもひどくなってきました。しかし、私が久しぶりに昔話が聞きたいとお願いすると、祖母は当時の語りそのままで、話始めたのです。
 「むがーし、むがし、あるどごろに……。」目を瞑りながら話す祖母のもとに、私の子供たちも集まってきました。話してくれたのは「桃太郎」。私も自分の子供たちに、今まで何度も聞かせたはずの桃太郎。でも、東京に出てきたときに、無理矢理「都会の言葉遣い」にしてしまった私の語りとは全く違っています。「……そうして、ももだろうど、じいちゃんとばあちゃんは、いづまでもいづまでもしあわせにぐらしました。」聞き終わった後の子供たちの満たされた表情を見て、私もとても満足でした。が、「ひいおばあちゃん、今、何話してたの? 」と子供たち。それを聞いて私と母は大爆笑。
 同じ日本語なのに、不思議だなあとあらためて感じた瞬間でした。

 さて、みなさんが思い出す昔話は何でしょうか? 昔話を絵本で読んで知った人も多いでしょう。しかし、それ以上に、「誰かに語ってもらった」人も多いはず。そこにはその地域の言葉や、もしかしたら語り手のオリジナルの内容が含まれているかもしれません。みなさんがその話を思い出すとき、語ってくれた人の口調や姿がきっと浮かぶはずです。機会があれば、また昔話を聞かせてもらいましょう。話を聞くことのすばらしさが、実感できるはずです。


音読が脳の活性化によい(はむはむ/はむら先生)
  先月号の新聞では、最近の試験には記述が増えているようだという話を書きました。学習全体が、国語力に一層の重点を置くようになったということです。国語力が何よりも大事だということは当たり前なのですが、今までは実践できていなかったのでしょう。
 
 国語の場合、勉強の方法がむずかしいという人も多いようです。漢字やことわざなどはできるのですが、作文のような記述に対応した勉強はどうすればいいか、という話でした。

 作文の力には論理的な思考と表現力の総合が必要です。知識や分析力にはなんと言っても読書です。思考と表現のためには、みなさんが練習しているように、決まったテーマと決まった項目を入れて毎週作文を提出する、というのは、とてもよい訓練です。

 ところで、このふたつの過程、すなわち読書と作文の間に問題が出てくるかもしれません。「分っているのに書けない」ということです。

 入ってきた(浮かんできた)考えを文字で表すという脳内での高度な変換作業、これは、算数での計算ドリルと同様、音読が効果的でしょう。数量を四則の記号で抽象化したり、目で文字を追いながら一瞬のうちに言葉の概念をとらえて発音する、というのは人間ならではの能力です。「いしはもとよりひょうしょうにおいても」を「意志は基より表象に於いても」と音読するようになると言うことは、瞬時の抽象化を経て、ひとつの知識と思考を得ると言うことになると思います。

 「音読が脳の活性化によい」というのは、昨今の人のよく言う所でありますし、私自身も感じているところです。目から入ってきた情報と、音読による耳からの情報、それを手が文字で表す・・この3つをつなげることのできる人間の能力は本当にすばらしいものです。
 漢字や人名の暗記の際にも、ぜひ、声に出して読みながら手を動かして書いてみましょう。勉強にかかる前にまず音読で脳の準備体操、というのもよいようですが、音読してからとりかかると、確かにずっと始めやすい様な気がします。


                                        
電子辞書とぶ厚い辞書(ゆっきー/かき先生)
このたび、中学校に入学された生徒さんは、新しい環境には慣れましたか? 小学校とちがい、教科ごとに先生が変わるというのに、初めはとまどったことでしょう。私が中学のときの担任の先生で、男の体育の先生があたったのですが、この先生は、体育のときは男子しか教えないので、なんと、ホームルーム以外、一度も授業を教わらなかったという、体験があります。その1年はとても不思議な気分でした。
 進級した生徒さんは、新しい教科書を前に、「がんばるぞー」という意気込みでいっぱいなのではないでしょうか。4月の1週目の作文には、そのようなやる気マンマンの言葉があふれているものがたくさんあり、うれしく思いました。

 さて、新しい学年になり、学用品を新調した人も多いかと思います。その中で、辞書をそろえた人もいることでしょう。とくに、中学校に入学した人は英語の辞書を買ったと思います。小学生の人も、国語辞典、漢字辞典、ことわざ辞典……と学年が上がるにつれ、種類も増えているのではないでしょうか。
 この間、新聞に「入学祝に電子辞書が増えている」という記事が載っていました。大学生の話かと思ったら、中・高校生の話なので、おどろいてしまいました。私が中学生のころには、考えられなった話です。でも、携帯電話が当たり前の世の中、これは自然な成り行きなのかもしれません。これを読んでいる生徒さんの中にも、電子辞書を持っている人もいると思います。私は、基本的には、電子辞書はすぐれた機械だと思っています。利点として、持ち歩くのに軽くて便利(高校時代、英和・和英・古語辞典の3冊を毎日、学校へ持っていくのが実に大変でした)、調べたい語句がすぐに出てくる、見た目がかっこいい、などいくつか挙げられます。しかし、辞書の本来の目的は「調べる過程」にあると私は考えています。例えば、「型:かた」を小学国語辞典でひくと、「型」にたどりつくまでに、「方」「片」「形」「肩」とたくさんの「かた」が目に入ってきます。「肩」にいたっては、「肩で息をする」などの慣用句まで並んでいます。もちろん、これらをいちいち全部読んでいたらきりがないので、読むのは時間があるときでいいと思います。要は、そのおまけの部分に目が触れる機会があるかないかだと思います。電子辞書は、このおまけの部分がありません。みなさんも作文を書くうえで、辞書を使う機会があると思いますが、そのときは、ぜひ、電子辞書ではなく、あのぶ厚い辞書を開いてみてくださいね。ソンはぜったいしないと思いますよ。
 余談ですが、私の主人が、高校の英語教師をしているのですが、生徒の中で、やはり電子辞書を使っている人がいるそうです。これはあくまでも主人の学校の生徒の場合ですが、大学入試の結果を見た場合、電子辞書ではなく、ぶ厚い辞書を使っていた生徒の方が、圧倒的によい結果を出したそうです。
 このように書いていると、電子辞書にはいいところがないように思えますが、先にも書いたように、いいところも、もちろんあります。「持ち歩くのに軽くて便利」なんていうのは、電子辞書ならではの利点です。外出先で英単語の勉強なんて、ふつうの辞書ではできません。要するに、電子辞書もぶ厚い辞書も、使い方ひとつで、ものすごいすぐれものに変身するのです。みなさんも、時と場合により、うまく使い分けてくださいね。
 
ホーム 言葉の森新聞