言葉の森新聞 編集用
印刷設定:A4縦用紙 :ブラウザの文字のサイズ:最小 ブラウザのページ設定:ヘッダーなし フッターなし 左余白25 右余白8 上下余白8
  横書きの長文についての意見
  何ができる? (けいこ/なら先生)
  とんびに油揚げ(ごだい/ひら先生)
  心の中に美しい日本語を(ミニー/さらだ先生)
  ほのかに白し(しまりす/きらら先生)
 
言葉の森新聞 2006年11月2週号 通算第958号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
横書きの長文についての意見
 今学期から、長文集が横書きになったことについて、数件のご意見がありました。内容は、「横書きよりも縦書きの方が読みやすかった」というものです。
 縦書きの方が読みやすいというのは、私(森川林)も同じです。日本人は、縦書きの方が目が早く動くようになっているようです。これは、もちろんふだん接する文章に縦書きが多いからでしょう。
 では、なぜ長文集を横書きにしたかというと、それは既に何度か書きましたが、次の理由からです。
(1)縦書きは、普段の生活で十分に接している
(2)入試の作文小論文の課題では、横書きの課題文が多くなっている
(3)現在のインターネット技術で、縦書きルビふりを枠内に収めることは不可能
 いちばん大きいのは、(3)の技術的な問題ですが、考え方の土台として、縦書きか横書きかは好みの問題で、読みやすさはそれほど大きくは変わらないということをが今回の横書き化の前提となっています。つまり、縦書きか横書きかは、それほど大きな問題ではないという考えです。

 さて、ここで問題にしたいのは、縦書きがいいか横書きがいいかということではなく、そういうことにこだわる親の姿勢です。
 言葉の森の長文については、これまで、次のような苦情を受けてきました。
「縦書きと横書きが同じ課題フォルダの中に混ざっていて読みにくい」
「縦書きの長文の行間が狭いので読みにくい」
「長文の内容に興味がわかないので読みにくい」
「長文にふりがながふっていないので読みにくい」
「長文の字が小さくて読みにくい」
「長文が内容が難しくて読みにくい」
「長文の漢字が多くて読みにくい」
 そのとおりです。こういう批判は、技術的・時間的に可能なかぎり対応してきました。
 しかし、私が問題にしたいのは、このような苦情を言うお母さんが、自分の子供が長文を音読するときにいつもにこにこ、「よくできたね」と褒めているでしょうか、ということです。「長文が読みにくい」とわざわざこちらに言ってくるお母さんは、自分の子供が長文を音読しているときにも同じように、「どうしてもう少しすらすら読めないの」などと言っているはずです。
 つまり、問題は、読みにくい長文という外側にあるのではなく、そのお母さんの物事を見る姿勢という内側にあるのです。
 大変失礼な言い方になっていると思いますが、子供の教育を考えるときに、長文が読みやすいか読みにくいかということは枝葉末節のことです。肝心の幹となる部分は、親が子供のいいところを見て、明るく前向きに接しているかどうかということです。
 批判の多いお母さんの子供は、小学校中学年のころまでは素直にいい成績を取っています。しかし、高学年になるとだんだん親に反発し親の言うことを聞かなくなってきます。これは当然です。人間は短所を直して成長するのではなく長所を伸ばして成長するからです。
 そして、もっと大きい問題は、批判を受けて育った子供は、親に反発しながらも、やがて自分が大きくなったときに自然に周囲を批判するような大人になっていくということです。親や先生が教える勉強の中身は限りがあります。勉強の中身よりももっと大きな影響を与えるものは、子供が勉強を教わることを通して学ぶ、親や先生の生き方です。子供が幸福な人生を歩めるように教育をするのであれば、教える中身よりも教え方にこそ注意を向ける必要があります。
 いろいろなお母さんと接していて思うのは、欠点を見つけて悪いところを直そうとする方があまりにも多いということです。言葉の森の指導と運営に対する批判は大いに歓迎しますが、その際に、同じような批判を子供に対してもしていないかということをぜひふりかえっていただきたいと思います。
 
何ができる? (けいこ/なら先生)
 『世界を見る目が変わる50の事実』(ジェシカ・ウィリアムズ=著 酒井泰介=訳 草思社)という本を読みました。著者は英国国営放送BBCのジャーナリストで、たくさんの著名人へのインタビューをしている人だそうです。この本は日本で2005年に発売されましたが、今も増刷が続いているので、よく読まれているのでしょう。地域の図書館で貸出予約をしても、半年待ちの状態だとか!
 この本は、私たちがふだん当たり前に思っていること・やっていること、いや、何も思うことさえもないことについて、数値データを紹介し「考えてごらん」と事実を突きつけています。例えば、
世界の5人に1人は1日1ドル未満で暮らしている。
世界の人口の70パーセント以上は電話を使ったことがない。
毎年10の言語が消失している。
中には、こんなものもあります。
 マクドナルドの黄色いアーチが分かる人は88パーセント。キリスト教の十字架はたったの54パーセント。
 「終戦直後、初めてコーラを飲んだ日本人は、薬っぽくて飲めたものではないと吐き出していた。」という話を耳にしたことがあります。それから数十年後「世界中どこにいっても、コカコーラ・ペプシの空き缶・空きびんがある。」と言われたことがありました。私が小学生くらいのことです。今は、マクドナルド、なのですね。
 この本で二つのことを学びました。一つは、「数値が持つメッセージの強さ」ということです。「世界には日に3回の食事を摂れない人がたくさんいるのだよ。」と言われても、「ふーん、それで。」と斜に構える人もいそうです。だけれども、具体的な数字を示されるとどうでしょう。「1ドルだから100円ちょっとか。」「5人に1人ということは、うちのクラスだったら6〜7人もいることになるのか。」「でも、1日100円ってことはなさそうだ。ということは……。」というように、考え出すのではないでしょうか。同じような効果を意図したものに、『世界がもし100人の村だったら』(これは何シリーズかあるようです)という本があります。
 このように、何かを伝えようとするときの強い材料として、数値データを活用することは、作文を書くときにも参考になります。中学生になって取り組む【題材】の課題「データ実例の引用」です。もちろん、学校の国語の授業中、決められた時間内に資料なしで作文を書くときには、データ実例を探すのは難しいでしょう。時間をかけて、資料を確認しながら書ける場合には、ぜひデータ実例を引用するよう心がけてみましょう。できれば、そのデータは何によって調べられたものかという出典も示しておくといいですね。
 もう一つは、「知ることの大切さ」です。この本の中には、直接的に私たち日本人の生活には関わらないようなことも紹介してあります。それは、「直接的」ではないだけで、「関わらないよう」に思えるだけなのかもしれません。知らないで得ている私たちの快適な暮らしは、どこかでだれかを踏み台にして、搾取したものから生まれているということです。事実を知ることは、「何かできる?」「何かしなくては!」という行動のスタート地点だと改めて思いました。本の「はじめに」で、筆者はこう述べています。

 『何より念頭においてほしいことがある。これらは事実だが、しかし変えられないわけではないことだ。世界を変えるのに遅すぎることはない。しかし、行動は急を要する。事柄によっては意識改革を迫るものもあるし、また政府に国際社会に対する責任をもっと真剣に果たすよう、求めるものもある。いずれも容易なことではない。しかし、やらなければ、永遠に達成されない。』

 この本を読んで、ふと思いました。「知ることのできる環境にあること自体が、地球規模で考えると、とても恵まれていることなのだ。」それでも、知らないことはたくさんあります。知るための努力を怠らないことも、大切な行動なのでしょうね。
 
とんびに油揚げ(ごだい/ひら先生)
「ギャーッ」
バサバサバサッ、ヒューン。
「何だ何だ」数秒間自分になにが起こったかわかりませんでした。おにぎりが手から瞬時に消えて無くなったのです!ファミマで買った新作ツナキムチが!
ヒューンの先を見ると・・・「ピ〜ヒョロヒョロ〜」なんと茶色くてでっかい鳥がバサバサ羽を動かしながらこっちを見ています。
「タカだよお母さん!」
叫ぶ息子。でもよく見ると、
「どんびだ、とんび、悔しいっ。まだ半分も食べていなかったのにっ。」
あわれ、手に持っていたツナキムチは、とんびにたたき落とされ河原の芝の上に散ったのでした。まだたべられるかなあ、いややっぱりだめだ・・・。



「とんびに油揚げをさらわれる」
食べ物の恨みは怖いと言いますが(笑)、「本当にとんびに油揚げをさらわれる人がいたのだなあ」と昔の人の気持ちを追体験した気分になりました。(笑)。
更に、ちょうど学級新聞〆切前だったので、「これは神様からことわざについて書きなさいというプレゼントに違いない!」と渡りに船のような心持ちもになりました。おにぎりは心残りですが、とんびさんおいしい題材をありがとう!
さてさて、このことわざの意味ですが「大切なものをふいに横から奪われて呆然とするようす」です。これは、ジャイアンにマンガを取り上げられるのび太のように、皆さんの周りでも日常的にあることではないでしょうか。食べようと残していたプリンを「これいらないの〜」とあという間に横取りされたとか・・・。

せっかくなので、普段よく使えそうなことわざを他にもご紹介しますね。

「急がば回れ」
急ぐときには、危険な近道よりも遠くても安全な本道を通る方が結局早い。遠回りに見えても、安全で着実な方法をとった方がよい。
・・・そもそもは公園で食べる予定にしていたおにぎりを我慢できずに(笑)川の畔で食べることにしたことを思い出しました。

「後悔先に立たず」
してしまったことは、あとになって悔やんでも取り返しがつかない。
・・・落ちてしまったキムチおにぎりは戻ってこない。終わったことはくよくよしてもしょうがない。

「災害は忘れた頃にやってくる(寺田寅彦)」
災害に対する準備や心構えを忘れることを戒める言葉。
・・・とんびが現れたのは平和な土曜の昼下がりのことでした。

「捨てる神あれば拾う神あり」
一方で見捨てる人があるかと思うと、一方で助けてくれる人もいる。世の中はさまざまだから、くよくよすることはない。
・・・そうです。これを考え方の問題とすると、とんびのおかげで学級新聞が書けました(笑)。

「角を矯めて牛を殺す」
少しの欠点を直そうとして、かえってそのもの自体をだめにする。些細なことにこだわって、肝心な大本をそこなうこと。
・・・しかし、金沢中心部を流れる犀川(さいがわ、詩人・室生犀星の「犀」はここから取っています。)のほとりは緑がきれいでピクニックには最適なのです。とんびごときで、その楽しみを諦めては本末転倒です。

幸いにも、とんびはツナキムチをたたき落とすだけだったので、
「よし、これに味をしめられたら調子に乗って被害が増える!」
とぶつぶつ言いながらうらめしさ半分で、おにぎりをコンビニの袋に片づけたのでした。みなさんもとんび(鳥に限らず)にくれぐれもご注意下さい。
 
心の中に美しい日本語を(ミニー/さらだ先生)
 「この坂はW坂というんだ。W字型に折れ曲がっているでしょう」
杉戸は説明してくれた。なるほど少し登ると折れ曲がり、また少し行くと折れ曲がっている。
「腹がへると、なんとも言えずきゅうと胃にこたえて来る坂ですよ。あんたも、あしたから、僕の言っていることが嘘でないことが判る。稽古のひどい時には、この辺で足が上がらなくなる。なんで四高にはいって、こんなに辛い目にあわなければならぬかと、自然に涙が出て来る」

 九月の三連休に、先生は夫の赴任先である石川県へ行ってきました。金沢の町は、初めて訪れるところでしたので、とても楽しみでした。その楽しみのひとつは、実はこのW坂を訪れることでした。これは、先生の大好きな井上靖の自伝的小説、「しろばんば」 「夏草冬濤」 に続く「北の海」 の一説です。高校受験に失敗した主人公 洪作が、〈練習量がすべてを決定する柔道〉 という金沢の四高柔道部員の言葉に魅了(みりょう)され、浪人でありながら四高柔道部の夏稽古に参加し、この金沢で練習する日々を過ごします。寺町と犀川にかかる桜橋を結ぶこの坂道は、急勾配をジグザグの階段でつないでいて、その姿からW坂とよばれているそうです。そしてこの坂のちょうど折れ曲がった所に、この後半の一説が札に書かれていました。それを目で追いながら、先生の思いは、この「北の海」 に入っていきました。そばを流れる犀川の美しさを井上靖は、何度かこの小説の中に描いています。時代はずいぶん違いますが、隔たりのようなものは感じず、情緒に包まれながら坂を登っていきました。
 九月に新政権になってまもなく、新学習指導要領の焦点の一つになっている小学校での英語必修化について、伊吹文部科学相は、「私は必修化する必要は全くないと思う。美しい日本語ができないのに、外国の言葉をやったってダメ」と話し、否定的な見解を示しました。また、国際的な感覚を磨いたり、外国人に触れて文化的な違いを学習したりしている現状は是認(ぜにん)しつつ、「アルファベットから会話を教えるというのであれば、最低限の日本語の素養をマスターしてからでいいのでは」 とも述べました。先生は、この意見にとても賛成です。英語に関心を持ち、外国文化に触れることはとてもいいことです。けれど、まずは、小、中学校のうちに美しい日本語をしっかりと体の中に刻むことが大切だと思うのです。国際人とは自国語に堪能(たんのう)でなくてはなりません。
 
 前にも学級新聞に書いたことがあると思うのですが、先生のお友だちで、とある所で英語の手紙の検閲をしている人がいます。事情があって、手紙の内容を検閲しなければならないのですが、時折、家族や知人からその人に送られた手紙を読んでいると、声をあげてしまいそうになるくらい涙があふれてしまうことがあるそうです。その友人のところへ英語を習いたいと、中高生が来るようですが、その友人は必ずその生徒に向かって言うそうです。「私は生徒に『英語がうまくなりたいの?』 と聞くの。『うまくなりたいんだったら、日本語の本をいっぱい読みなさい』 って言うんだ。英語の能力は最終的にはそこに行き着くのよね。」 と先生に話してくれました。
 本をたくさん読んで、知識を蓄え、いろいろな想い、笑ったり悲しんだり感動したりして、心の中に美しい日本語を刻んでいく。言葉が略されたりする時代の中にいても、美しい日本語に触れていれば、きっと国際人になっていくと思います。先生が中学、高校と胸がキュッとなりながら読んだあの「夏草冬濤」 や「北の海」 の世界に、いつでも戻っていけるように、みんなにも心の中に残るものとの出会いがあってほしいなあ…。 
 W坂を登り終え、犀川を眺めると、しっとりとした金沢の町並みが広がりました。
ほのかに白し(しまりす/きらら先生)
 「海くれて かものこえ ほのかに白し」
松尾芭蕉(まつおばしょう)が詠んだ俳句です。
 解説をするなら、「季節は冬。日が暮れた海辺にたたずんでいると、どこからか鴨の声がほの白く聞こえてくる。」という感じになるでしょうか。私は、この句が大好き。初めてこの句を読んだとき、本当に音が聞こえてくるような気がしました。波の音、鴨の声、それ以外は聞こえてこない静けさ・・・。そして、鴨の声を「白し(= 白い)」と表現した芭蕉の感覚。目に見えない音を表すために、色をつけるなんて、さすがですね。5、7、5という短い字数の中で、大きな世界が広がる感じです。
 もうひとつ、この句のすばらしさは、語順にあると思います。もしも、普通に俳句のリズムに合わせるとしたら、
「海くれて ほのかに白し かものこえ」となるでしょう。5、7、5という数に、ぴったりあてはまります。けれど、芭蕉はあえてこの語順にしなかったのです。二つをくらべてみると、「ほのかに白し」を最後にもってきた方が、余韻が残る感じがします。鐘を一度つくと、ゴーーーンとしばらくひびくように、海の風景がいつまでも残るのです。
 みなさんが書く作文にも、この句で使っている表現方法が使えるのではないでしょうか。目に見えない物を、色で表すのもおもしろいでしょう。また、語順を変えるというのは、「動作情景のむすび」や「書き出しのむすび」の項目と関係があると思います。普通とはちょっと違う終わらせ方をすることで、印象的な終わらせ方になりますね。
 秋。みなさんも芸術家になった気分で、自分だけにしか書けない作文をどんどん書いてください。
 
ホーム 言葉の森新聞