言葉の森新聞 編集用
印刷設定:A4縦用紙 :ブラウザの文字のサイズ:最小 ブラウザのページ設定:ヘッダーなし フッターなし 左余白25 右余白8 上下余白8
  【重要】項目表の項目マークを再送します
  高3「ザクロの苗」の予測問題、複数の対策は柔軟に
  最近、入会されたばかりの方に
  「授業の掲示板」や「学年別の予習室」の活用を
  テストのための学力ではなく、自分なりに考えるための学力を
  作文の勉強は、正しい答えを知る勉強ではなく、自分で考える勉強
  作文の特に得意でも特に苦手でもない普通の子の勉強法
  ないものを求めるよりも、あるものを生かして使う(facebook記事より)
 
言葉の森新聞 2012年4月2週号 通算第1219号

https://www.mori7.com/mori/

森新聞
【重要】項目表の項目マークを再送します
 4月から項目シールを廃止し、その代わりに項目マークを手書きで書いていただくようにしました。
 しかし、何人かの生徒の方から、「項目マークが表示されていない」「ホチキスで隠れて見えない」などの声がありました。
 そこで、課題別の項目表を、4月2週の「山のたより」に付け加えました。項目表に項目マークが表示されていない方は、この新しい項目表をご使用ください。
高3「ザクロの苗」の予測問題、複数の対策は柔軟に
 高3の「ザクロの苗」の課題で、予測問題の主題があります。予測問題として考えつかないときは、高2で勉強したときのように社会問題として書いてもかまいません。
 大学入試の小論文では、構成は、原因+対策となる形がかなりよくあります。そのため、ヒントの中には、複数の対策ではなく原因と対策のように書いてあるものもあります。これも、柔軟に、「対策1+対策2」と書いても、「原因+対策」と書いてもよいと考えていってください。
 ご質問は、ホームページの「授業と予習の掲示板」、facebookページの「高3の予習室」などでも受け付けています。
最近、入会されたばかりの方に
 作文の勉強は、あらゆる勉強の中でいちばん難しいものだと考えてください。世間には、ドリルをやるような感覚で楽しく書けることを売り物にしている作文教室もあると思いますが、ドリル形式でだれでもできるような勉強では力がつきません。中身のある勉強をするためには、それなりの苦労が必要なのだと考えておいてください。

 長続きさせることがいちばん大事です。作文の勉強が本格的に難しくなるのは小学校5年生からです。小学校1年生から4年生までは、そのための準備という面もあります。勉強は長く続けることが大切です。なかなか進歩しないように見える時期があっても、長く続けた子は必ず力がついてきます。
 長く続けるために大事なことは、無理をしないことです。うまく書けなかった、自習ができなかった、何度か休んでしまった、というようなことがあっても、おおらかな気持ちで見ていくことです。決して、叱ったり注意したりしないように、いつもその子のいいところを見て褒めて励ますようにしていってください。

 困ったときは、すぐに教室に相談の電話をしてください。
 お母さんと子供の二人だけの関係では、うまく行かないときに勉強が行き詰まることがあります。そういうときはすぐに教室にお電話でご相談ください。
・子供が作文を書けないとき
・自習ができないとき
・時間がかかるとき などなど。

 子供の書いた作文は、できるだけ直したり注意したりしないようにしてください。どの子の作文も、大人が見れば、注意するところがたくさんあります。しかし、それは、注意して直せばいいというものではありません。注意するよりも、普段の読書や対話に力を入れて、自然に注意しなくても済むようにしていくというのが基本的な考え方です。
 
 そして、他人との比較や競争をできるだけしないようにしてください。点数や競争で意欲を持たせると、必ずあとで反動があります。点数や競争や賞罰でがんばらせると、そういうものがなければがんばれない子になってしまいます。意欲は、競争によってではなく、両親の温かい関心によって生まれるものだと考えていってください。

 自習も無理をしないようにしてください。音読、暗唱、読書、問題集読書など、すべてが生活の一部としてできるようになれば申し分ありませんが、そうはならない子の方が大多数です。自習ができなくても、それで勉強が進まないわけではありません。それぞれの家庭の実情に応じて無理なく続けられるものだけを続けていってください。しかし、最低限、毎日の読書は続けていくといいと思います。低中学年では、特に、読書は勉強よりも優先して行うようにしていってください。その方が、あとで必ず実力がついてきます。
「授業の掲示板」や「学年別の予習室」の活用を
 言葉の森の勉強の特徴は、「教材を渡してあとは自由にやってください」という一般の通信教育とは正反対のやり方をしているところにあります。それは、毎週担当の先生が電話で説明をし、インターネットの掲示板などで、そのときどきの質問や相談ができるというところに表れています。
 同じインターネットの利用でも、従来の通信教育がネット・サーフィン型のサービスだとすれば、言葉の森はソーシャル・ネットワーク型のサービスを提供できるように心がけています。ぜひご活用ください。
「授業と予習の掲示板」
http://www.mori7.com/okajg/
「学年別の予習室」(facebookグループのページです)
http://www.facebook.com/kotobanomori
テストのための学力ではなく、自分なりに考えるための学力を
 本というものは、大きく二つに分けられるように思います。ひとつは、著者としての物の見方や考え方のある創造的な本、もうひとつはさまざまな資料を駆使して卒論のようにもれなく知識が網羅されているが、特にこれといって創造的なものが感じられない本です。大雑把すぎる分け方ですが、前者が買って得した本、後者が買ってあまり得しなかった本とするとわかりやすいかと思います。そして、この区別が、それらの著者の勉強のスタイルに帰因するのではないかと思ったことがあります。
 創造的なことを書く人は、自分の源泉となるような古典あるいは繰り返し読むような数冊の本を持っているようです。それに対して、資料のような本を書く人は、1冊の古典のような本と格闘するよりも、広く浅くだれからも必要とされる教科書のような本を中心に読んでいるのではないかと思いました。
 これが、そのまま子供たちの勉強のスタイルにもあてはめることができます。現代の勉強は、その勉強を通して何かを発見したり創造したりするためではなく、その勉強を通して何かの試験に合格するために行われているという面があります。
 合格するための勉強というのが、この広く浅く必要なものをひととおりマスターしておくという網羅的な勉強です。それは、試験というものが選抜試験である以上やむを得ないものですが、問題は、そういう網羅的、資料的な勉強の仕方が低年齢化していることにあります。
 世の中は、自然にしろ社会にしろ、接すればどこまでも続く無限の深みを持っています。だから、子供たちは、ある物事(遊びや趣味)に夢中になり、大人の目から見てよく飽きないと思うほど長時間集中して取り組むことができるのです。
 ところが、網羅的な勉強をするときは、世界はすべてある答えの決まっている平面的なものとして子供たちの前に登場します。「日本一高い山は? はい、富士山。」「では、その高さは? はい、3776メートル。」というような調べればわかる知識が、まるで自分を取り巻く世界そのものであるかのように見なされて知識化されています。その知識を身につけることが勉強であるかのように考えられているのです。これは、もっと複雑な英数国理社の勉強でも同じです。
 もちろん、子供(というか人間)は、もともと本来の知識欲がありますから、やがてただ答えが○になるだけでは満足せずに、より深く知りたいという気持ちを持つようになってきます。しかし、今日の社会では、この網羅的な勉強のスタイルが、そのまま大学入試まで続いてしまうのです。そして、そういう勉強スタイルに適応した子ほど、周囲からはとりあえず優秀な子供だと見なされているのです。
 これからの社会に必要なのは、自分なりに考える力で、その考える材料として多くの知識があるべきなのですが、現状は、多くの知識自体が目的になり、それを組み合わせることが知的な作業のように思われています。
 日本をよりよい国にしていくためには、このような勉強の仕方そのものを変えていく必要があります。それは、資料を網羅する力ではなく、自分の関心のあることを深く知り、そして考える力を育てていくことになると思います。
作文の勉強は、正しい答えを知る勉強ではなく、自分で考える勉強
 作文の勉強が他の勉強と異なる点は、主体的でないと勉強ができないということです。他の勉強は、教室に来てイスに座って先生の話を聞いて、問題が配られたらそれを見て解けば、それがひとつの勉強になっています。しかし、作文はそういうわけにはいきません。
 教室に来る前に、自分なりに書くことを考えていないと、先生の説明を聞くだけではなかなか書き出せません。特に、高学年の感想文課題は難しくなるので、家で何度もその課題を音読していないと、書く前の理解さえできないことになります。理解できなければ、当然似た例も出てこないので、作文も書けません。
 ところが、家であらかじめ音読をして、その内容を家族に説明してくるといったときも、たぶん受け身の子がまだ多いのではないかと思います。自分で似た例を考えるのではなく、親に似た例を聞いてくるという発想の子が多いのです。つまり、自分で考えて自分で言うのではなく、他人に聞き他人に教えてもらうという受け身の勉強スタイルが、子供たちの間にかなり根強く残っているのです。
 これまでの社会での勉強は、与えられたものをより多くより早く身につけるという勉強でした。現在の受験勉強でも、主に要求されるのはそういう受け身の理解力です。
 しかし、これからの時代は、受け身の能力はほどほどでいいのです。あるいは、必要なときだけ使えればいいのです。なぜ、知識や理解がほどほどでいいかというと、人間が社会の中で仕事をする場合、その仕事に必要な知識の範囲はかなり限られているからです(そのかわり深くなりますが)。どのような仕事にも、一般教養は必要ですが、その教養も重箱の隅をつつくようなところまでカバーしている必要はなく、全教科の概略がわかっていればいいのです。大事なことは、自分で考え、自分から発表する能力と姿勢です。
 子供たちにこういう姿勢を持たせるために、作文の予習はいい機会になると思います。子供が、お父さんやお母さんに長文の内容を説明したあと、すぐに、「この長文の似た例ある?」と聞いてきたら、それに答えようとする前に、まず、「自分はどう思う?」と聞き返してみてあげてください。大事なのは、正しい答え(のようなもの)を知ることではなく、間違っていても見当外れでもいいから、自分なりに考えて自分の意見を言うことです。
 もちろん、すぐにそのように自分で考える姿勢になることはできないので、しばらくは、「やはり、わからない」という答えになるかもしれません。しかし、気長に、「自分はどう思う?」という質問を続けていけば、子供は次第に自分で考えることが大切なのだとわかってきます。家族の対話は、そういうコミュニケーションを交わす場です。
 作文の勉強は、答えを見つける勉強ではなく、自分で考える勉強です。正しいかどうかではなく、自分で考えたかどうかが大事なのだということを折に触れて子供に伝えてあげてください。
 知識が底辺だとすると、考える力は高さです。

 どちらも大切なのですが、現在のテストでは、測定しやすい知識の方が重視されがちです。考える勉強だと思われている教科であっても、ある問題が解けるかどうかは、考える力よりも、同じ問題を解いたことがあるかどうかという知識の習得度に左右されます。
 そのような時代だからこそ、作文の勉強の中で、考える力をしっかり育てていく必要があるのです。
作文の特に得意でも特に苦手でもない普通の子の勉強法
 作文の勉強ですぐに効果の表れるのは、得意な子と苦手な子です。
 得意な子は、書くこと自体が考える勉強になっていますし、新しい書き方もすぐに身につけます。
 一方、苦手な子は、書き方の手順さえ示してあげれば、だれでも書けるようになるので、やはりすぐに上達します。体験学習で、普段書けない子が驚くほど書けるというのは、こういう場合です。
 ところが、大多数の普通の子は、作文をただ書かせるだけではあまり上達しません。自分の書ける範囲で書いているだけでは、力を伸ばすきっかけとなる負荷がないからです。
 世間の作文指導の多くは、赤ペンによる添削が中心になっています。添削は、最初のうちこそ効果がありますが、何回か書いているうちに、赤ペンでは直すことがなくなってきます。添削に力を入れても、作文が上達しなくなってくるのです。
 そこで大事になるのが、事前の予習です。
 作文の勉強は、難しくすれば力がつくかというと、そういうことはありません。難しい課題を書かせようとすれば、ただ書けなくなるだけです。優しい課題で書かせれば楽に書けるので力がつかない。難しい課題で書かせれば、書けないのでやはり力がつかない。作文指導が簡単そうに見えて簡単でないのは、こういう事情があるからです。
 ところが、作文の課題の難しさは、他の勉強の難しさとは少し性格が違います。課題は日本語で書かれていますから、日本語を読み取ってそれを自分なりに理解することが難しいというのが、作文の課題の難しさです。
 日本語で書かれた文章が難しい場合、どのようにその文章を理解するかというと、ひとつはその文章をわからないながらも繰り返し音読して全体の流れをつかむことです。次に、その文章で自分が読み取ったことをほかの人に説明してみることです。そして、次にその説明に合わせて、いろいろな似た例を当てはめてみることです。これが、「音読→説明→対話」の予習です。
 普通の子が作文の実力をつけるためには、作文の上で添削するのではなく、作文を書く前の読む勉強に力を入れていく必要があります。
 難しい長文を読んで、その内容をほかの人に説明しようとすれば、普段自分が使わない語彙を使わなければなりません。そういう語彙の使い方が、作文を書くときの語彙として生きてきます。
 感想文を書くためには、似た例を思いつかなければなりません。長文の説明のあと、その長文に関して家族で対話をすれば、その対話の一部が似た例につながってきます。また、たとえ直接の似た例が見つからなかったとしても、その長文をめぐって話をしようとすること自体が考える力をつける勉強になっています。
 作文の勉強は、書く勉強と思われがちですが、書くというのは結果です。結果を直そうとすることは、結果に出ている形を整えるようなことです。植物で言えば、既に咲いている花の向きを変えたり、既に伸びている枝を選定したりするようなことが、結果を直すことです。
 大事なのは、結果を直すことではなく、そういう結果を生むようになった原因のところに手を入れることです。植物で言えば、根をしっかり張るようにさせて、その根に水や肥料を与えることです。
 作文を見ると、その子の本当の国語力がわかります。
 国語力は、国語のテストではわかりません。なぜなら、国語のテストは、点数で差をつけるために、国語力以外の注意力とその注意を向ける方法とを必要とするからです。
 本当の国語力は、少し難しい文章を書く練習と、そのために、少し難しい文章を何度も音読して、その文章をもとに対話をすることで身についてくるのです。
ないものを求めるよりも、あるものを生かして使う(facebook記事より)
 あれもない、これもないと、ないものを数えるのではなく、
 あれもあるし、これもあると、あるものの多さに感謝しよう。
 ないものを見つけに行こうとするよりも、今あるものを生かして使おう。
 今あるものがありあまるほど豊かになれば、やがてないものと交換する人がやってくる。
====
 足りないものを手に入れようとすると、他人の思惑とぶつかり合い、それは争いや戦いに発展します。不足から始まった勝利は、勝ったあとも新たな不足を生み出します。
 漫画に出てくるギャング団は、奪ったものの分け前をめぐって仲間割れを起こします。分け前を互いに譲り合う仲間たちだったら、もともとギャング団にはならなかったからです。
 ないものに目を向けるのではなく、あるものに目を向けるというのは、人間に対しても当てはまります。子供も大人も、みんなそれぞれに欠点を持っています。その欠点を直そうとするよりも、長所を生かす方に目を向けることです。すると、欠点は自然に他の人がカバーしてくれるようになるのです。
 
ホーム 言葉の森新聞