言葉の森新聞 編集用
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  7月29日(水)・30日(木)・31日(金)は休み
  第4週は清書。幼稚園生は作文
   清書の意義と方法
   清書の投稿
   小学生新聞の投稿先
   手書き清書の送り方
  算数数学の勉強でつまずいたら(つづき)
  未来の日本を作る寺子屋オンエア
  工業資本主義の時代のあとに来る、ネットワーク文化産業の時代
  【再掲】言葉の森が提案した読書感想文の書き方
  【再掲】「桃太郎」を例にした感想文の書き方
 
言葉の森新聞 2015年7月4週号 通算第1379号

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森新聞
7月29日(水)・30日(木)・31日(金)は休み
 7月29日(水)・30日(木)・31日(金)は、第5週でお休みです。先生からの電話はありません。振替授業もお休みです。
第4週は清書。幼稚園生は作文
 幼稚園年中と年長の生徒は、第4週も普通の作文を書く練習です。自由な題名で作文を書いてください。
 小学1年生以上の生徒は、清書を行います。
 清書をしたあと、時間に余裕のある場合は読解問題をしてください。
清書の意義と方法
 清書とは、これまでに書いた作文の中で内容がよかったものを書き直すことです。内容がよいとは、個性、感動、共感などがあるということです。
書き直すときは、次の点に留意してください。
(1)漢字で書けるところは漢字で書く。
(2)たとえや自作名言を工夫できるところがあれば工夫する。
(3)似た話や続きの話を書くことによって字数を増やす。
(4)作文用紙の空いているところに絵などをかいてもよい。
清書の投稿
 清書した作文は、小学生新聞や一般紙などに投稿してみましょう。
 手書きの清書の原本を、新聞社に投稿したり、コンクールに応募したりする場合は、清書のコピーの方を先生に送ってください。
 新聞社に投稿する際は、作文用紙の欄外又は別紙に次の事項を記載してください。
(1)本名とふりがな(2)学年(3)自宅の住所(4)自宅の電話番号(5)学校名とふりがな(6)学校所在地(町村名までで可)など。
 投稿する際は、ペンネームを本名に訂正しておいてください。作文の中に友達の名前が固有名詞で入っている場合は、イニシアルなどに直しておいてください。投稿する作文の内容は、保護者がチェックしてあげてください。
 同じものを複数の新聞社やコンクールに送らないようにしてください。これは二重投稿といって、もし両方に掲載されてしまった場合、掲載先に迷惑をかけることになります。
小学生新聞の投稿先
■104-8433東京都中央区築地3-5-4朝日小学生新聞「ぼくとわたしの作品」係
■100-8051(住所はいりません)毎日小学生新聞「さくひん」係(600字以内)
※清書した作文を投稿しない場合でも、額などに入れて家の中に飾っておきましょう。
手書き清書の送り方
 手書きの清書も作文と同じように先生に送ってください、翌月の1週の作文と一緒に返却します。
算数数学の勉強でつまずいたら(つづき)
 お母さんやお父さんが子供に教えるときに大事なことは、教えすぎないということです。誰でも、自分にわかることはつい詳しく教えたくなるものですが、よくわかっていることほどできるだけ教える割合を少なくして、子供が自分でわかるようにさせておくことです。
 
 また、その場で教えて子供ができるようになったことでも、人に教わったことは、1日たつと忘れてしまうのが普通です。同じ問題を、次の日にも、また次の日にも同じように聞かれても、同じように忍耐強く教えていくことが大事です。
 親子で勉強すると、親子喧嘩になってしまう原因の多くは、親が熱心に教えすぎることと、一度教えたことはすぐできるようになるものだと思ってしまうことにあります。

 では、親が解法を見てもわからないときはどうするのでしょうか。そのときは、先生に聞くのです。
 しかし、解法を見ても、親が理解できない問題は、その問題集自体がよくないか、あるいはもともとできなくてもよい問題なのです。なぜできなくてもよいかというと、その問題で入試の点数に差がつくことはほとんどないからです。

 これは、国語でも同じです。
 例えば、センター試験の選択問題は、原則として満点の取れる問題ですが、中には先生も正解が理解できない問題があります。その問題はできなくてもよいのです。
 できるべき問題が確実にできていれば、できない問題はできなくてもよいということを子供に教えてあげることも大切な勉強の仕方になります。
未来の日本を作る寺子屋オンエア
 日本の重厚長大産業は、強い国際競争力があります。それは、これからのデフレ化の世界的インフラ整備の流れの中で、日本の経済発展を土台となるものです。
 これに対して、スマホ、パソコン、テレビなどの軽工業は、人件費の低い新興国に生産の中心が移っていきます。
 しかし、だから、これから日本は重厚長大産業を中心にがんばればそれでいいのかというと、そうではありません。

 それはなぜかというと、重厚長大産業は、雇用を創造する力がないからです。より正確に言えば、良質の雇用を創造する力がありません。
 土木業界は、今人手不足だと言われていますが、それは、外国人労働者の導入でカバーすることが考えられるような労働力です。それはまた、いずれロボットで置き換えられるような労働力です。今後の日本の社会に必要な雇用は、そのような雇用ではなく、仕事の中で人間の成長が実現できるような雇用です。
 航空宇宙産業も重厚長大産業の一種ですが、そこでは新しい雇用はほとんど生まれません。

 今、多くの雇用を生み出しているのは、サービス業ですが、その多くは単純サービス業です。その仕事を何年続けても、それが自分の向上や経験の蓄積にならないような仕事は、たとえ多くの雇用を生み出していたとしても、未来の日本を支える産業にはなりません。

 これから必要なのは、その仕事の中で人間が成長し、社会に新しい創造を提案できるような教育的文化的なサービス業です。
 そして、この新しいサービス業という分野こそ、日本人が最も得意とする分野です。だから、教育文化産業は、今後、重厚長大産業と同じかそれ以上に、強い国際競争力を持つようになるのです。

 言葉の森の寺子屋オンエアは、この新しい教育文化産業という位置づけで開発を続けています。先はまだ長いかもしれませんが、日本の社会を更に発展させるためにがんばっていきたいと思います。
工業資本主義の時代のあとに来る、ネットワーク文化産業の時代
 資本主義は、工業生産の時代から始まりました。
 なぜなら、工業生産のためには、その生産のための機械や設備を賄うだけの資本が必要となるからです。

 農業の時代には、生産はすべての人が担うものでした。土地さえあれば、誰でもそこで農作物を作ることができたからです。しかし、工業の時代には、生産設備を持っている人だけが生産の中心を担うようになります。

 その生産設備を補完するものが労働者で、その労働に見合う対価が給与でした。
 労働者は、その給与によって、工業生産から生まれた商品を消費します。その消費が、生産者の売上となり利益となります。

 機械が動き、労働者が働き、その働きによって給与を受け取り、その給与を消費し、それが利益となるというサイクルが回っているときは問題がありませんでした。
 しかし、その利益が退蔵されはじめると、経済のサイクルを流れる富は次第に縮小していきます。

 退蔵は、ただ利益を金庫にしまっておくような形でなされるのではありません。
 現代社会の退蔵のひとつの特徴は、それが不毛な軍備に使われたり、金融投機に使われたりするところにあります。

 経済サイクルの縮小に対する解決策として、いくつかの案が考えられていました。
 第一は、退蔵される富に見合うだけの消費を新たに作り出すことです。(ケインズ)
 第二は、退蔵される富に見合うだけのマネーを新たに供給することです。(マネタリスト)
 第三は、退蔵する余裕がないように、企業間の競争を活性化させることです。
 第四は、退蔵されようとする利益そのものを労働者で分配することです。(マルクス)

 しかし、今、この資本主義の経済サイクル自体に、大きな変化が起きつつあります。
 それは、先進国の消費の焦点が、工業製品の消費から、より文化的なものの消費に移りつつあることです。

 昔、カー、クーラー、カラーテレビが三種の神器と呼ばれていたころ、それらの製品が持つ性能は多くの人の関心の対象でした。
 しかし、今それらの工業製品は、日用品化し、性能は似たり寄ったりと見なされ、性能に対するこだわり持つ人は少なくなっています。そのかわり、人間の持つ関心の中心は、出会い、触れ合い、新しい経験、自己の向上、社会への貢献、創造への参加など、より文化的なものに移り変わりつつあるのです。

 この文化の消費の特徴は、その消費によってやがて自分が同じ文化を生産する側に回ることができるという点にあります。
 そして、ネット化された社会では、生産は、かつてのような巨大な資本を必要としないものになりつつあります。

 例えば、昔は仕事を始めるのに場所が必要で、そのための家賃が必要でした。今は、ネット店舗は多少のウェブの知識があれば誰でも作ることができます。
 昔は働いてくれる人を確保するための人件費が必要で、それは簡単に増減できないものでした。今は、ネットでプロジェクトチームを立ち上げれば、必要に応じて人を集めることができます。
 昔は、商品を宣伝するためには、看板やチラシが必要で、そのためにはそれなりの広告費が必要でした。今は、ネットワークのソーシャルなつながりがあれば、情報はその魅力に応じて拡散することができます。
 昔は、新しい商品を開発するためには研究開発のための費用が必要でした。今は、ネットの交流の中でオープンな情報交換ができるようになっています。

 こういうネットワークのインフラに支えられた文化産業の時代が、これから日本で始まりつつあります。言葉の森の寺子屋オンエアも、このような歴史的文脈の中で考えています。
【再掲】言葉の森が提案した読書感想文の書き方
 言葉の森が読書感想文の指導を始めるまで、読書感想文のわかりやすい書き方というものはありませんでした。

 それまでは、感想文というと、感想を書くものだと思う人が多く、同じようなことを何度も書くような書き方になりがちでした。感想や意見というものは、本質的にはシンプルなものなので、それを長く引き伸ばして書くことはできないのです。

 また、感想を書くかわりに、あらすじを長々と書くような子もよくいました。小学生の勉強としては、感想文を書くよりも、このようにあらすじを書く方がずっと勉強にはなるのです。しかし、あらすじを長く書くだけでは、書く方も、読む方も、面白くありません。

 言葉の森が提案した感想文の書き方は、似た例を通して題材をふくらませ、そのふくらんだ題材から感想を書くという書き方です。しかも、これを抽象的な理屈として説明するのではなく、「第一段落には何を書いて、第二段落には何を書いて」と、子供たちに誤解の余地のないように説明したので、誰でも簡単に感想文が書けるようになったのです。

 感想文の書き方の具体例は、言葉の森のホームページの右上にある「ホームページの全記事」のフォームで検索できます。ここに、「読書感想文」という文字を入れて検索すると、書き方の例が多数出てきます。

読書感想文の書き方―小学校低中学年
http://www.mori7.com/as/537.html
読書感想文の書き方―小学校高学年
http://www.mori7.com/as/538.html
読書感想文の書き方―中学生
http://www.mori7.com/as/539.html
「桃太郎」を例にした感想文の書き方
http://www.mori7.com/as/1314.html
【再掲】「桃太郎」を例にした感想文の書き方
 みんながよく知っている「桃太郎」を読んで感想文を書く練習です。このような形で書いていけば、読書感想文は簡単です。
 感想文のコツは、似た話を長く書くことです。1日に書く分量を400字ぐらいにしておき、3日か4日で全部仕上げるようにすれば負担がありません。
 以下は、小学校5、6年生ぐらいで書く感想文の例です。
▼1日目
 緑の山と青い川、桃太郎が生まれたのは、こんな自然の豊かな村だった。しかし、その村は、毎年来る鬼のためにとても貧しい村だった。(情景などがわかるようにして書き出しを工夫する)
 ある日、いつものように、おばあさんが川で洗濯をしていた。すると、川上から大きな桃がドンブラコッコ、ドンブラコッコと流れてきた。(物語の序盤から引用する)
 ぼくは、一年生のころ、父と母と弟でキャンプに行った。キャンプ場には、きれいな川があり、その川の近くでぼくたちはバーベキューをした。食べたあとのお皿を洗うと、川の流れがすぐに汚れを運んでくれる。ぼくは、昔の人はこんなふうに川で洗濯をしたのかなあと思った。(自分自身の体験を書く)
 さて、その川のキャンプでのいちばんの思い出は、冷やしておいたスイカがいつの間にか流されてしまったことだ。夜冷やしておいて、次の日に食べようと思っていたスイカが、朝起きてみるとなかった。一緒に冷やしておいた父のビールはそのまま残っていたので、たぶん夜のうちに川に流れていってしまったのだろう。
 ぼくは、ふと、桃太郎の生まれた桃も、上流でだれかが冷やしておいたのではないかという気がしてきた。(この感想は主題に関係なくてもOK)
▼2日目
 桃から生まれた桃太郎は、一杯食べると一杯分、二杯食べると二杯分大きくなった。しかし、桃太郎はいつまでも食べては寝るだけで何もしようとしなかった。(物語の中盤から引用する)
 ぼくの小さかったころの話を、父と母に聞いたことがある。最初三千グラムで生まれたぼくは、一年たつころには、もうその三倍の十キログラム近くになっていたそうだ。ぼくの今の体重は三十五キログラムなので、生まれたときの約十倍になっている。そんなに大きくなるまで何杯ご飯を食べたかはわからないが、たぶん最初のころの桃太郎と同じようにぐんぐん大きくなっていったのだろう。(身近な人に取材する)
 母に聞くと、ぼくは小さいころ、自分から言葉をしゃべろうとせず、まるでお地蔵さんのようにいつもにこにこ人の話を聞いているだけだったそうだ(「まるで」という比喩は文章を個性的にする)。母は、そのことを少し心配していたらしい。たぶん、そのときの母の気持ちは、いつまでも食べて寝るだけの桃太郎を見ておじいさんやおばあさんが感じた気持ちと同じではなかったかという気がする(「たぶん」という推測は自然と感想になる)。(つづく)
 
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