| 有意義な生活 |
| アジサイ | の | 峰 | の広場 |
| 由樹子 | / | あるさ | 高2 |
| 「とき」という「もの」は、私たちに喜怒哀楽を経験させてくれるものであ |
| り、「とき」があるこそ生きていると実感できるのだと私は思う。だからこそ |
| 、私たちはそれを有意義に過ごさなければならないし、「とき」が経っている |
| ことを肌で感じなければならない。そのためには、多少忙しくとも私は何歳で |
| 今日は何日だとか、今日はどういう日でどう過ごすとか計画を立てて一日を大 |
| 切にして過ごすべきであり、ラオスの人々は「とき」を「もの」として感じて |
| いないと私は思うのだ。つまりラオス人の時間の過ごし方には多少問題がある |
| のではないか? |
| その原因としてはまず、「とき」が経ったのかも分からない生活を送ってい |
| るということだ。本人らはのびのび自由に生活をして、それなりに楽しんでい |
| るのかもしれないが、私にはとても有意義に生活を送っているとは思えないの |
| である。私は夏休みがあまり好きではない。どうしてかというと、そのうちや |
| ることがなくなってきて、何も楽しみがなくなってくるからだ。生活には決め |
| られた時間に自分のやりたいことに向かってがんばるとか、今日はこれをした |
| いから何時に起きてとか、そういったメリハリがとても大切だと思う。 |
| また、私はその日が何日なのか分からないというのはとても問題だと思う。 |
| これは、自分の生まれてきた日もいつなのかはっきりしないということだ。私 |
| は自分の生まれてきた日を祝ってもらえるというのは一年の中で一番嬉しい。 |
| それは私だけでないだろう。そういうように思っている私にとっては「とき」 |
| を感じられない生活など考えられない。 |
| 確かに、ラオス人のような生活の方が、色々な発見もあったりしてのびのび |
| 生きられるのかもしれない。そう考えてみると筆者の考えも全て否定はできな |
| いと思う。しかし、少なくとも私にとっては、多少時間に追われてせかせかし |
| ていても一日今日もごくろうさま、と自分に言えるような生活があっているの |
| である。 |