| 山のあなたの空遠く。 | 
| アジサイ | の | 道 | の広場 | 
| 眠雨 | / | うき | 高1 | 
| 最近の流行を見るに、どうもどれもこれも人造の色が強いように感じる。音 | 
| 楽、漫画、小説、ゲーム。別段それら自体は悪いものではない。だが、人間の | 
| 美の捉え方が少しずつ偏ったものになり始めているのは、歓迎できる事態では | 
| ないだろう。人工物には人工物なりの良さがあるが、自然の与えるありのまま | 
| の風景にも、人工物にはない良さがまたあるのだ。我々は、もっと自然の持つ | 
| 美性を見直すべきだろう。 | 
| 自然美は、人工美とはまた別種の美である。その違いを認識しなければ、わ | 
| ざわざ自然の美へ目を向けようという気も起こらないだろう。違いがわかる。 | 
| 何かのコマーシャルのようだが、それが自然の美を見直す第一歩と言えそうで | 
| ある。よく言われることとは違い、自然美は決して人工美よりも壮大ではない | 
| 。しかし同様に、人工美も自然美を上回り壮大とは言えない。花がはたりと落 | 
| ちるその一瞬の儚さ、脆さ、そしてどこか毅然とした美しさを、どんな言葉で | 
| も言い表せはしない。空気が凛と冷えた夜、白く丸い穴にも似た、呼び声すら | 
| 聞こえそうな霽月は、どんな絵の具でも描き出せはしない。また、ドラムとベ | 
| ースのリズムに合わせてギターが奏で、ボーカルの詞がそれに乗る現代のバン | 
| ドを、自然は表現できないのである。両者は別種であり、美しさを持つという | 
| 点に措いて対等なのだ。つい二週間ほど前になるだろうか、習い事への道を急 | 
| いでいた私は、ふと目を細めた。ビルの谷間に、切り残されたわずかな空。そ | 
| の密やかな聖域のさらに奥、仕事を終えた夕陽が、隣人へ一杯の酒を振る舞う | 
| ような白光を残し、薄暗い街を灼きながら沈もうとしていた。見つめていると | 
| 何故だか涙が滲んだ。どうしようもない衝動にかられ、習い事の先生に頼んで | 
| カメラをとってきてもらい、その風景を形に残そうとした。けれど何度覗いて | 
| もレンズの向こうに夕陽は無く、シャッターを切っても、その四角いフレーム | 
| には染みのような茫光があるだけだった。空を赤く染めた白い夕陽は、絵画と | 
| も写真とも違う美しさがあったのだ。 | 
| だが自然美を見直すといっても、それなりに偶然の要素が強い体験がなけれ | 
| ば、一朝一夕にできるものでもない。そこで第二に、躾の改善があげられる。 | 
| 家庭用ゲーム機が普及し、生活も安定しやすくなった現代、親は子供に様々な | 
| 娯楽を与えるが、それは決して子供のためにならないことが多い。そのものに | 
| 毒性があるわけではないが、そうした娯楽は屋内で楽しむものが多いため、自 | 
| 然に接する機会が次第に閉ざされていく。つまり、非常に偏った人間が育ちや | 
| すいのだ。外へ出て自然を愛で、風に混ざる木々の香りに鼻孔をくすぐられ、 | 
| 沈む夕日の赤色を目を細めて見送る。そんな体験を幼いころより両立させねば | 
| 、自然の美を楽しめぬまま一生を過ごしてしまうことにもなりかねない。それ | 
| は心の貧しさを招き、また自己表現の乏しさを招く。高名な物理学者アイザッ | 
| ク・ニュートンは、木の実が落ちるのを見て万有引力の法則を発見したという | 
| 逸話がある。勉学を積み、机に向かい難しい計算を解いているような学者でも | 
| 、いや、そんな人間だからこそ、自然のふと見せる美しく組み合わさった一面 | 
| を、見つけられないままでいることが多い。 | 
| 確かに、人工美には新しい芸術を次々に生み出す拡張性、成長性がある。そ | 
| うした、生み出せる美の進歩もまた人類の進歩であると言えるだろうし、その | 
| 足跡を無視することはできないだろう。しかし、人工美がそれ単体で美として | 
| 完結することも望ましくはない。心の財産の偏重は鈍重を招く。「空はどこま | 
| でも 風はいつまでも/皆が忘れてる 暖かさがある」とは、音楽の授業で習 | 
| った歌の中の一節だ。ただでさえ人工物に溢れている現代、我々はもう少しだ | 
| け、自然の持つ美しさへ目を向け直すべきだ。 | 
| あの光がまた、ビルの隙間を照らすように。 | 
| あの日の夕陽をまた、いつか誰かが見上げるように。 |