ギンナン の山 7 月 4 週 (5)
○日本人は記録魔だ、と   池新  
 日本人は記録魔だ、と言う人がある。何でも、やたらにメモをとる、記録しておく。何のためということはない。おもしろそうなことも、おもしろくなさそうなことも、無差別に記録してしまう。事実がそこにあるからであろう。こういう記録魔的なところが、かえって日本に歴史らしい歴史の発達をおくらせることになった。歴史には史観という倫理が必要で、がらくたの骨董屋のような人間は歴史家になることができない。
 思想の「体系」もない。しっかり固定した視点もない。ただ見聞を黙々と記録する。そして、記録するかたっぱしから、忘れ去られるのにまかせている。記録を史観で貫いて不朽のものにしようなどとは考えない。しかし、このことが案外、創造のためにはプラスになるのである。むやみと記録し、たちまち忘却のなかへ棄てさる。記録にとらわれない。去るものは追わずに忘れてしまう。そういう人間の頭はいつも白紙のように、きれいで、こだわりがない。
 日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の風が吹いていて、しっかりした体系の構築を妨げている。しかし、へたに建物が立っていない空地だから、新しいものを建てるのに便利である、とも言えるのである。
 日本語はどうも、俳句や短篇や珠玉のような随筆に見られる点的思考に適している。逆に、大思想を支えるような線的思考の持久力には欠けている。しかし、持続力はときによくない先入主となって、精神の自由な躍動をじゃますることがないとは言えない。「ひらめき」をもつのには、日本語はなかなか好都合なのである。
 このごろ、やたらに、対話だとかコミュニケイションだとかが騒がれているが、元来、日本人は多言、雄弁をきらい、沈黙の言語を深いものと感じるセンスをもっている。巧言令色スクナシ仁。そして、問答無用。∵
 ほかの人間と議論して、正と反との葛藤の中から合という中正を見つけていこうという弁証法のような考え方とは、日本人はもともと無縁である。日本にレトリック(修辞学)や弁論術が発達しなかったのは当然であろう。対話によって思考を展開するのではなくて、独白、あるいは詠嘆によって、最終的な形の思考を、投げ出すように表現するのが日本的発想である。
 言いかえると、日本人は言語を使用しながら、ともすれば、伝達拒否の姿勢をとりやすい。他人のちょっとした言葉にも傷つく繊細さをもっていることもあって、自分の殻にこもって内攻する。発散しない表現のエネルギーは鬱積して「腹ふくるるわざ」になるが、いよいよもって抑えられなくなると、爆発するのである。
 宗教における悟道、啓示というのもこの範疇に入れて考えてよい。喫茶店で友人とコーヒーをすすりながら悟りをひらく、というようなことは考えにくい。やはり、面壁九年の修行の方がオーソドックスというものである。日本語は、どうも出家的創造性に適していると言うことが出来そうである。論理に行きづまった西欧の知識人が、禅に絶大な魅力を見出しているのも故なしとは言えないように思われる。
 出家的創造は、対話的発想による論理のように持続はしないが、高圧にまで圧縮されたエネルギーが爆発するときの力には、天地の様相を一変させるものすごさがあることも忘れてはならない。
 日本語が、いわゆる論理的でないと言われる、まさにその点に、日本語の創造的性格が存するということは、われわれを勇気づけるに足る逆説である。

(外山滋比古(しげひこ)「日本語と創造性」による)