ギンナン の山 9 月 4 週 (5)
○最近のローティーン以下の   池新  
 最近のローティーン以下の子供たちは、あれほど教師が「個性」「自立」「自立性」を金科玉条のように主張しているにもかかわらず、目立つことを嫌う傾向が強いそうである。彼らの間では、「他人に配慮ができる」気配り型が人気で、「場の空気が読めない」外し型が不人気だそうである。事実、うちの小学生の娘を見ていても、目立たないことの重要性を学習していると感じている。
 「けっこうです」という言葉は頭が痛い。高文脈言語である日本語を象徴する言葉である。文脈を理解していないと、「イエス」か「ノー」かわからないのである。日本人でも文脈が微妙で、どちらかわからないことさえある。最近の若者の間で、この「けっこうです」に代わる言葉のひとつに、「ビミョー」があろう。明確な判断を避けているとの批判もあるが、若者たちの間では、共有している文脈のなかで、最近はとくに否定的な意見や感想をできるだけ述べたくないので、推し量れという高文脈言葉として使われている。まさに微妙なのである。
(中略)
 これを巨視的にはどう捉えるべきか。戦後の一億総中流という平等幻想の上に築かれた企業という名の大きな帰属集団が、いままさに崩壊せんとしており、日本的小規模帰属集団への先祖返りが若者によってなされようとしている、と受けとれないこともない。この意味においても、日本企業は若年層の企業への忠誠心(この場合は英語のコミットメントという語がふさわしい)を、どのように確保するのかという大きな問題を抱えているといえる。このまま企業が、若者たちの企業へのコミットメントを喪失すれば、日本企業の企業力、ひいては日本の国力は衰退していくことだろう。
 したがって、若者の行動の変化が個人主義への移行につながるという議論は、明らかに論理が飛躍している。利己主義化(わがまま化)していることを個人主義化の根拠としているのかもしれないが、集団主義を否定すれば個人主義になるというような単純な二項対立的な問題ではない。日本と西欧の自我/自己構造の違いを考え∵れば、これが乱暴な論であることは明らかである。
 にもかかわらず、日本的原理の崩壊=個人主義への移行という極端な論を展開している人が多いのは、そうした論者自身が日本人的自己の前提構造の不安定さに苛立っているからと解釈したほうがよいのではないか。自己の前提となる役割構造が崩壊してしまうときによく見られる日本的な態度、まるで振り子のように「ゼロか百か」に極端に振れる姿勢が、ここにもあらわれているのである。そもそも、利己主義と個人主義を混同すること自体、日本人が西欧的な意味での個人主義原理に向かっていない証拠である。
 繰り返しになるが、若年層の行動を子細に見ていくと、自己の相対的位置づけに基づく内向きの思考メカニズムに、構造的な変化は認められない。一見、個人主義原理へ移行しつつあるように映る若年層の行動は、自己構造にいたる手前のプロセスにおける、二つの領域での変化と解釈すべきなのではないか。
 ひとつは、従来に比べて若年層の共通文脈の設定領域が狭くなったことと、コミュニケーション・スキルとその方法が変化したことである。もうひとつは、若年層の社会行動規範の通念が、これまでに比べてかなり変化してきたことである。戦後の官僚が築き上げた「一億総中流の平等幻想」がバブル崩壊によって破綻し、「一億総よい子化」に息苦しさを感じる若者たちが出てきたことによって、社会通念が変化し、よい意味での階層化が進んでいる。息苦しくなくいられる、自分のアイデンティティとなるワーキング・クラスの形成である。けっして裕福でもない家庭の子供がニートの多くを占められるほど豊かな社会では当然かもしれない。最近は「下流社会」とか「格差社会」という言葉がはやっているが、階層化をすべて悪と捉えるのは、社会主義的官僚か、おせっかいな進歩的文化人であろう。

(小笠原泰『なんとなく、日本人』による)