ズミ2 の山 12 月 3 週 (5)
★一連の関連情報に(感)   池新  
 【1】一連の関連情報に熟知しているはずの情報科学の担当者でも、二、三ヵ月単位で入れ替わる最先端の機器のことはすぐにわからなくなるという。【2】理科系学部の出身者でも、わからないと音を上げる先端機器の扱い方は、いまでは一握りの人間だけが専門家として熟知しているのだという。機能がよくなるたびに使い捨てにするのは、ソフトや機器類だけではない。
 【3】みかけの明るさのなかにある、この不気味な闇はいったいどう解釈すればいいのか。専門の医師さえ知らない最新の病気の症状もインターネットで手に入るし、あやしげな薬も核兵器までもがインターネットで手に入る時代になったのである。
 【4】迷惑メールやヴィールスのあつかいを今後どうするのかも、これからの共同の課題であろう。しかし、それと同時に、いまなお外国の放送が自由に受信できず、外からの情報が遮断されている国がすぐ近くにもあることを忘れないでいたい。【5】そうして、いまこの瞬間にも、われわれの貴重な文書が、時代遅れでもう要らないとみなされて、大量のごみとして、どしどし抹殺される新しい焚書の時代がいま進行していることを忘れてはならない。
 【6】今後、われわれは、あまたの情報機器をどう使いこなしていけばいいのか。その知恵が共通の知恵として、われわれの社会に根づくには、まだだいぶ時間がかかりそうである。そのときが来るまで、この私が、はたして無事に生きていられるという保障はない。【7】とすれば、私はやはり、自分のメモやノートのたぐいは、ある程度は手書きのまま残しておくのがいいのではないか。ファイルなども、すべて抹殺して自己の責任を帳消しにしたがる文化は、自分史の痕跡すら抹殺する文化であることを忘れないでいたいものである。
 【8】情報化時代は、いくら言われ聞かされても、自分の利害に直接関わりがないと、知らぬ存ぜぬという顔をする厚顔無恥な傾向を助長するところがある。【9】またいま、われわれ現代人がどれほど誠実に現代社会の諸問題に対して処方箋を考えてみたところで、それが後代の日本人に対する処方箋にはなりえないだろうということがある。そういう言説は、それを発する当人の世代に対する処方箋でし∵かないということも真実なのだ。
 【0】そう考えると、二十一世紀の人間には、この先の二十年、三十年先のことまでは、とても予測できないだろうという悲観論も、引きうけなくてはならなくなる。
 私という人間が、せまく「われ」という殻に閉じこもって「ひとり」になるのと、せまい「われわれ」のなかに逃げ込むのは、別ではなく、どこかでつながっている。あえて孤立化することと、みかけの連帯を志向するのは、逆方向にむかう別の動きではあるものの、結果としてせまいかたちでひとつになっている、というのが日本的な「われ」と「われわれ」のかかえる、むずかしい問題のありかを象徴的に示している。
 こうして、せまく小さいi−()weが密接に関わりあい、お互いになりかわりあい、支えあうが、他の者はすべてtheyとして突き放し、目をやらないというのが日本人の「日本人らしさ」になっている。
 そこにある問題をこのまま放置しておいていいのか、というのが私の問いかけたい問いである。今後、より開かれた国際社会のなかで、よりひろい生き方を選びとろうとするなら、たとえ自分とは異質であっても、協力し共生していくために、新たな連帯の道を模索することがあってもいいのではないか。そういう方向に自らを認識させようとする生き方を、さらに模索していくことがいまわれわれに求められているのではないか。
 「われ」が「われわれ」と同じものを求めあい、「われ」が他の「われ」と容易になりかわりあう社会。そういう慣例が国民レベルですでに浸透しきっている日本という社会は、どこまでも同質であることに価値をおき、そのなかで、似通った人材の再生産をめざす社会になっている。
 国の内外に見られる「平和」というものも、そのせまい生ぬるい排他的な社会のあり方から来ている。そのなかにあるかぎり、とくにめだった反抗をしないでいれば、痛くもかゆくもない安全と平和が保障されている。だが、それが見えないところでどれだけ絶望に充ちたあり方になっているか、何もしなくていい問題であるかはまた別の問題である。
(小原信「iモード社会の「われとわれわれ」)