書いた人はタカヒロ on 12月 07, 1997 at 03:58:39:
森川さんの意見について反論を述べ、そのコメントを読んだ訳ですが、
とにかくなるほどと思う部分が多く、実に参考になりました。
(いや、これ読んでる人がいるとすれば、何でも良いから意見書いて
みた方がいいですよ。きっとためになります)
が、もちろん反論もある訳ですが、どうしても納得のいかぬのが
森川さんの、国語力をつける際に漫画が邪魔する、との意見です。
国語嫌いは遺伝する?−森川林 97/5/11
↓(反論)
国語嫌いは問題なし −タカヒロ 97/12/03
↓(コメント)
Re:国語嫌いは問題なし
国語力をつける事が、深く考える力をつける事につながるかと
言うと、まったくつながらないのです。
国語力で特定的につくのは、活字で述べられたヒトの考えを
そのまま知る力と、自分の考えを文章で表現する力がつくだけなんです。
それがしたいなら国語力をつけるのもいいですが、考える力なんかは
つきやしないんです。いや、考える力なんて文章だって漫画だって
映画だってテニスだって同じだけついてくんです。考える力が、ですよ。
例えば森川さんの意見では、
「文章によってつく考える力が、漫画によってはつかない」
と言ってられる訳ですが、そこんとこの言い分はどうも
分らないのです。文章によってどんな特定の考える力がつくかを
森川さんか、他の誰かか、掲示してくれませんか。
↑
(文章はヒトの顔やら特定しないが、漫画やらは特定してしまう、
だから文章は想像力やら考える力やらがつく、てな事がよく言われますが、
そんな細かいつまらん神経質な想像力なんか必要ないでしょうが。
つまらんでしょう、登場人物の顔やら、景色の端のカラスやらを
想像して物語の妨げになるのは)
もう一度、書いておきますが、「文章で表現する力をつける」
という目的なら国語力をつけるのに賛成な訳です。しかしそれは
漫画で考える力がつかぬ事にはなりません。考える力と、コラムの
読解力も別物です。
つまり、活字文化を重視しすぎてるから、
ヒトの意見(活字)→(読解力により)本人、理解 → 本人、考える →
→本人、意見を活字に変換 → 活字で発表
というルートしかない、それかこのルートが大変望ましいと思うわけで、
そりゃ今までは活字が主でしたが、活字なんかどんなに
マスターしたって、ちいとも思い通りには述べられないんです。
小学生程度の基礎の基礎の日本語が喋れれば、自分の意見を
発表するには充分でしょう。それを、しっかりした日本語を喋れ、
じゃなきゃ聞かん、と言うのなら、それは言う人に問題があるでしょお。
けんか売ってんじゃないですよ。反論ください。