書いた人はタカヒロ on 12月 13, 1997 at 02:18:06:
どんな勉強でもですが、ある事柄をイメージとして捉える事ができた
時の驚きを、感じた時がないでしょうか?
例として、僕の高校の時の授業をあげます。
その先生は、こんな問題を出すんです。
「人間の、頭が40pcあったとき、手は何pcあるか?」
この問題を見ると、まずみんな「pc」という聞いたことのない
単語にとまどう訳ですね。僕は割と秀才の集まる高校にいたのですが、
けっこうみんなすんなり応えられないんです。秀才だからこそ、
「pc」という単語を知らない事でもうパニックを起こしてしまうんです。
でも、「pc」というのがただの単位なのだという事が捉えられれば、
これは、
「人間の、頭が40個あったとき、手は何個あるか?」
と聞かれてるのと同じだと分るんですね。
これは理科の授業だったんですが、理科というのは単位の変換が
頻繁に起こるんですね。(100メートル)→(0.1キロメートル)とか。
だから問題集をやらす前に、「単位」はただの「単位」だと捉えさすのが
近道になるんです。
さて、しかし現行の教育ではイメージを捉えさす事をしません。
少なくとも上の例は、高校でやる事じゃないと思うでしょう?
でも、高校でやらねばならぬほど、小中学校ではそんな事を教えてないんです。
国語にしてもそうです。イメージをつかませる事が必要です。
僕は特に、接続詞と接尾語について先ずイメージを捉えさす必要があると思いますが、どうでしょう?
ここまで読まれて、「漢字の習得にこだわるな」という点には同意される方も多いと思いますが、
僕は生徒にただ文章を読ませて、その情景を書かせたり、感想を書かせたりするのも
無駄だと言いたいのです。特に感想なんか、なぜ聞く必要がありますか。
言っときますが、「情緒豊かな人間を育てる」という視点からの意見ではないですよ。
「物事を多く、正しく理解する人間を作る」という視点からの意見ですよ。