 
 論理を学ぶというと、いかにも頭がよくなるような感じがしますが、論理にはそういう力はありません。
 論理の反対にあるのは感覚ですから、論理を学ぶことによって感覚的なものの見方から離れることができるという利点があるのです。論理の役割は、そこまでです。
 論理の典型的な例は、三段論法です。「AがBであり、BがCであるならば、AはCである」というような論理は、見方を変えれば、当たり前の話で、最初からわかっていたことをわざわざ遠回しに言っているようなものです。
 しかし、この論理が、感覚との対比で役に立つこともあります。
 その一つの例は、「変数の数以上の等号の数があれば、その変数は特定できる」などという論理です。
 これは、数学の方程式や因数分解のような論理に似ています。直感的に考えたのでは決して確かとは言えないことが、論理的に考えると確かだ言わざるを得ないというのが論理の特徴です。
 この論理的な考えが実際の役に立つ例として、センター試験国語の勉強があります。
 センター試験の国語は、選択問題で答えが一つの定まっていますから、論理的に考えれば必ず正解に行き当たります。
 国語のテストだから感覚的に考えていいのだと考えると、かえって不正解になるのです。
 論理を学ぶと、世の中はすべて理屈どおりに成り立っているのだということに確信が持てるようになります。
 これが、数学の勉強をする意義です。
 プログラミングの勉強も、こういう論理への確信を持てるようになるという点で意義があります。
 しかし、論理が役立つのは、こういうところまでです。
 論理を学ぶことが頭をよくするわけではないと書きましたが、では、頭をよくするのはどういう学習なのでしょうか。
 それは、「難読」です。難読というのは、ここだけの造語で、難しい文章や本を読むという意味でつかっています。
 私が学生時代、最初にサルトルの「存在と無」を読んだとき、なかなか理解できなかった言葉が、即時存在、対自存在、即自かつ対自存在という3つの概念の区別でした。
 これを自分なりに何度も考えてやっと理解できたときに、ものの味方の新しい地平が開けた気がしたのです。
 こういう時間のかかる読み方を経験すると、速読というのは、表面的な理解には使えるが、深い理解には使えないということがよくわかります。
 速く読む力をつけることは大事ですが、もっと大事なのは深く読む力です。
 このサルトルの即時かつ対自存在という概念のもともとの出どころはヘーゲルでした。
 ヘーゲルは、教科書的な説明では、正反合というわかりやすい考え方でまとめられていることが多いのですが、ヘーゲルの本質はもっと深いものです。それは、物事がその発展の過程で、次第にその物事以外のものを生み出し、それがもともとの物事を否定し、新しい物事が生成されるという世界観です。「精神現象学」には、その具体例が豊富に書かれています。
 頭をよくするのは、論理を学ぶことによってではなく、こういう新しい概念を理解することによってです。
 しかし、小学生の子供に直接難しい本を読ませることはできません。
 だから、子供には、難しい本の代わりに、自然科学の本を読ませるといいのです。人文科学や社会科学は、仮説を述べていることが多いので、確実性のない知識もかなりあります。
 しかし、自然科学は、仮説の部分ももちろんありますが、実際の自然現象として説明できる確実なものが豊富にあります。その自然現象の理解を通して、新しい概念を理解することができるのです。
 自然科学の分野で新しい理解を得たときに、子供は感動します。その感動は、知的な喜びにつながる感動です。
 この感動が更に深く知りたいという知的好奇心を生み、そのことによって更に深い理解をすることで子供の頭はよくなっていくのです。
 だから、頭をよくする子育てで大事なことは、自然を学ぶ機会を作ること、それを難しい本の読書に結びつけることなのです。