低学年から学力の基礎を作る
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)
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自分とは一体… おこじょ
他者の他者としてのじぶんを意識できないとき、ぼくらの自己意識はぐらぐら揺れる。あるいはとても希薄になる。そういうとき、ぼくらは皮膚感覚という、あまりにも即物的な境界にこだわりだすのではないだろうか。自他の境界の最後のバリヤーとして。そしてそのバリヤー、つまりじぶんの最後の防壁を、過剰に防衛しようというのが、異物との接触を徹底して回避しようとするいわゆる清潔シンドロームだったのではないか。
僕はみかけ、いや文章のスタイルによらず、と自分で言ってしまっては少し変かもしれないが、意外と漂っている存在なのである。いや、本当に。だから、自分の存在が本当に誰かの益になっているのか、とも本気で考えては、結論は、
「やっぱり誰の益にもなっていない。」
で終わってしまう。だからこそ、今回の感想文は少し得した気分だ(笑)。
僕があのようなことを考えてしまう時は大体決まっている。人間関係、恋、勉強などに失敗してしまった時がほとんどである。
そうなってしまう第一の理由に、自身を失いやすいからだと思う。最近、僕が失敗し続けているのは、野球である。試合には出ていないが(^_^”)練習での送球ミスがとても多いこと、もちろん野球だけではない。とにかく失敗しやすく、そして、その失敗をいつまでも引きずっているからだ。「失敗を引きずる」ということに関しては、本当に「いつまでも」である。同じような光景がやってくると、そのたびに、それこそ2、3年前、ひどい時には、小学1年生の時のことも思いだし、いつも思う。
「あのころの自分って何だったんだろう。そして今の自分も誰かに幸福を与えているのだろうか」
少し大げさだが、よっぽど失敗してしまた時には、これ以上に大げさなことを思っても、ちっとも大げさだとは思わない。
第二の理由に、自分が一種の「一匹狼」であるからなのかもしれない。ちなみに、そんなおこじょと話してみたい、友達になってみたい、って言う人は、是非おこじょの部屋へきてください。僕はある日、と言っても今日、国語の比喩の授業で、こんな比喩が出た。
「おこじょのような一匹狼」(笑)
とにかくこんな感じなのだ。小学校のころは逆だった。気がついたら周りに人がいて、でも、自分だけで行動することができず、周りについて行くしかなかった。しかし今は、色々な意味で違う。周りに人が寄ってこない、まではいかないが、小学生のころに比べて、独りでいる時間が多くなった気がする。でも、自分独りで行動が起こせる気がする。
結論として、「自分は何なんだろう」ともう一人の自分に問いかけてみるのは、とても善いと思う。しかし、絶対に、「自分はこういう人である。」と言う結論は、絶対出してはいけないと思う。その答えは、一生かけてもわからないと思う。恐らく、これから何度も、
「自分とは何なのだろう」と言う疑問が絶えず出てくるだろう。しかし、そのたび考えるだけで、絶対に結論は創りたくはない。
講評 jun
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