毎月の森リン大賞
森リンの丘
毎月10日以降に、前月の森リン大賞の代表作品を選定します。
順位は、思考・知識・表現・経験の点の平均点で表示していますが、総合点は、この平均点に均衡点を加えた点数になっています。
小1の代表作品 2026年4月分
AI森リンベスト10
こげたマシュマロ
小1 あけます(akemasu)
2026年4月4日
4月11日にかぞく4人で大ぎだにキャンプじょうへ行きました。バーベキューをしました。いちばんおもい出にのこっているのはマシュマロをやいたところです。ぼくはマシュマロがすきです。わりばしの先にマシュマロをつけて火にちかづけました。こげたマシュマロはまるでアンパンマンがばくはつしたみたいでした。こげたマシュマロを口の中に入れたらガリガリとしていました。そして口の中でとけていきました。こげているところがにがくておいしくなかったです。
「火からはなしたらマシュマロはこげないよ。」
お父さんが教えてくれました。早くおしえてよとおもいました。ふつうのマシュマロのほうがおいしいなとおもいました。つぎはやいたマシュマロじゃなくてウインナーを100本やきたいです。
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小2の代表作品
AI森リンベスト10
道路の交通ルール
小2 あさしも(asasimo)
2026年4月4日
昨日、四月十六日に僕は、武蔵境の自動車教習所で交通安全教室のルールを学びました。交通安全教室とは、車や自転車にぶつからないように子供を安全にする授業です。手を挙げること確認すること左右を見ることが大切だと教わったので良いなと思いました。一番楽しかったのは、道路の渡り方です。三人で手を繋いで道路を渡りました。あとキャラクターも居ました。その名前はピックです。赤い服の係りの人が
「右の道路はどうかな、車が来てるけれど譲ってくれたから行っていいよ。」
と言いました。僕は、
「譲ってくれたから優しい人なのかな、でもきっとそうだね。」と答えました。赤い服の係りの人がにこっと笑ってくれました。もしピックが悪だったら嫌です。まるでピックは、人間のようです。どうしてかというと立っているからです。交通安全で全部出来るといいなと思いました。赤い服の係りの人とピックが子供を安全にしてすごいなと思いました。
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小3の代表作品
AI森リンベスト10
たびをする草や木のみを読んで
小4 あさりゆ(asariyu)
2026年4月4日
この話を読んで、ぼくがいちばんよく聞く話だなぁと思ったところは、人間のきものにくっついてはこばれる草のみの話です。春になってぼくの家に大量発生した草があります。ぼくのお母さんが、
「これは広場に生えている草やわ。毎日さんぽに行くから連れて帰ってきてしまったんやわ。」
と、びっくりしました。ぼくも広場の草むらでズボンが草のみだらけになったことがあります。指でつまんでもなかなか取れません。ぼくは、ウザいなぁと思いました。この話を読んで、あのときの草のみはぼくに運んでもらいたかったんだなぁと気がつきました。ぼくに指ではがされて草のみはガッカリしただろうなぁと、思いました。もし、またぼくに草のみがついたら今度は川に運んであげたいです。この話のさいごに、こうしてみると植物のたねのたびはたのしいハイキングや遠足ではなくて、めをだすばしょをさがしてあるくひっこしなのです、というところがあります。ひとところへたくさんのたねがおちないように、できるだけいきおいをつけて遠くへちらばってとぶのです、と書かれています。ぼくは、まるで一人立ちのようだなぁと、ジーンとしました。ひっこした場所で新しいおともだちができるといいなぁ、と思いました。もし、ぼくが植物のたねだったら、すべての方法をつかって南極にたどり着いてみたいです。
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小4の代表作品
AI森リンベスト10
ミイラ
小4 あきつき(akituki)
2026年4月4日
この話を読んで、驚いたことが三つあります。
一つ目は、日本でも、岩手県の中尊寺に藤原清衡のミイラがある、というところにびっくりしました。
なぜかというと、今ではミイラを作ると逮捕されるからです。昔の人は、古代エジプトだけでなく、他の国でも、日本でも死んでも生き返ると信じて肉体を残しておこうとしたことです。
もし、ミイラが生き返り、追いかけてきたら、私なら死んだふりをするか、お菓子をあげて仲良くなります。
二つ目は、ミイラ作りには、瀝青(アスファルト、石油、天然ガスなどの炭化水素化合物をまとめていった言葉)など炭化水素の化合物が使われているので、万病にきく薬になるとされたんだ、というところです。死体に炭素水素を使うと薬になるって信じていたのがすごいなあと思いました。私は、死体を薬としてのむなんて気持ち悪いので、たとえ効くとしてもそんな薬で治したくありません。
三つ目は、日本には、十六世紀に薬品〈ミルラ〉としてミイラが輸入されたというところです。これが一番驚きました。見つけて手に入れると、お金儲けができることから、ヨーロッパでも日本でも、危険を知りながら「ミイラ取り」にいった人がたくさんいたらしい。多分こういう人は、物凄くお金のない人だと思いました。まるで、闇バイトみたいだと思いました。
私もケイドロの鬼ごっこの時、捕まってしまうのにリスクを負いたくないので、ミイラ取りのような事はしたくありません。
ミイラはイラないです。
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小5の代表作品
AI森リンベスト10
日々変わるモノ_清書
小5 みきひさ(mikimiki)
2026年4月4日
筆者は、誰しもの人生のどんな一部を切り取っても日々の光景の何処かしらに、何時でも決まって屑籠が、きっと一つは置かれているはずなのに日々に欠かせぬ家具として重んじられていないということに気付いた。捨てるに捨てられないものになっている時になって始めて日々の暮らしの姿勢を作るのは、何を手に入れるかではなくて、本当は何を手に入れないかなのだということに、私たちは気付くのかもしれない。また、人は、屑籠の大きさはその人の心の大きさに正比例すると、勝手にそう決めつけているのだ。この文章を読んで一番納得したところは、屑籠が小さいから家に一つは置かれているはずだが重んじられていないというところだ。なぜかというと、自分の家でも屑籠はあるが、少しも重んじられていないからだ。
自分の家で重んじられていないものといえば、文房具がある。なぜ重んじられていないと思うのかというと、床に落としても何も思わないからだ。まるで、床に落としても音が聞こえないくらい静かに転がった。多分、勉強に焦っていたから聞こえなかったのだろう。一方、手紙を書いたり、勉強したりするのに文房具は使うのだ。文房具、例えば、鉛筆やシャーペンは、大切なものだが、屑籠のように、軽んじられているのだ。しかし、小さいものはあまり重んじられていないという訳ではない。小さいもので僕が大切にしているものには、祖父、祖母から小さい頃(三歳)にもらった蛍光クレヨンがある。僕がもらう時、
「はい。あげるよ。」
と、祖父と祖母は優しい声で言った。僕は、
「ありがとう。やったぁ~。」
と、大事に箱の中にしまった。そこから、小さいものだから軽んじられるという訳ではないことに気付いた。自分の経験から、小さく、軽んじられてしまうものは、大切なものではなかったり、特別なものではなかったりすることが多いと思う。僕にとって大切で、特別なモノは、誰かからもらったものである。それに対して、お金で買えるモノは、軽んじられるのだ。大きいものだとどうか確かめてみた。例えば、机がある。机も文房具と同じで、日常的に使っているからか、軽んじてしまっている気がする。そこから、大きいか大きくないかは重んじられるかどうかに関係がないと思った。それなのに、人は、「単位」を使い、大きさを比べている。だから、大きさを「単位」で分けるのはなぜか調べてみた。
大きさを決めるとは何か、単位に基づいて考えた。まず、単位の始まりは、メソポタミア、エジプト文明である。紀元前四千年以上前のすごく昔にできたのである。それに対し、日本での始まりは、「尺」である。一尺は三十五cmである。また、飛鳥時代、つまり、西暦五百五十年頃にできたと書いてあった。何のために単位は作られたのかというと、単位は、商取引や建築のために必要だったそうだ。一方、問題点は、単位が各国でばらばらで決めていたので、呼び名が違っていたり、同じ名称でも同じ量を示さなかったりしたことだ。例えば、足の踵から爪先までの長さは、英国では三十センチだが、ドイツ・プロイセン地方では三十八センチもあるのだ。僕の考えは、単位は大切であると思った。なぜなら、単位がないと長さがどれくらいか分からないので、物を生産できなくなり、生活が貧しくなるからだ。
人間にとって、大きさとは見る角度や視点によって変わるものである。そして、日々、変化し続けているものでもある。例えば、大小で比較した場合、大切さは大きくても小さくても変わらない。反対に、単位で大小を比べることで、最終的に生活を豊かにしてくれることにつながるので、単位で比較することは大切な指標になる。「日進月歩」という四字熟語がある。日ごと月ごとに絶え間なく進歩するという意味だ。これから周りも自分もどんどん変化していくと思う。だから、変化を敏感に捉え、それに合わせて自分の心を成長させたいと思う。
「僕」という高速バスは山あり谷ありの道を進んでいる。未来停留所はまだまだ先だ。
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小6の代表作品
AI森リンベスト10
想像力(清書)
小6 わかば(akahime)
2026年4月4日
私が二年生のときに、絵本の全文をなくし、絵だけの状態のものから創造する授業を行った。当時、ただ表現やリズムを楽しむことが読書だと勝手に解釈していた私はその突拍子もないアイデアに驚かされた。しかし、絵だけでも十分想像できて、この時主人公はこんな思いを抱いてたのかな? 等と想像したり、この時この人はこんな事をしていたんだ! と感じ取ることができることに吃驚仰天した。登場人物の表情や展開からストーリーの内容を推測することができるのである。言葉がなくても、テレビを見ているかのように、脳内で、アニメーションのようなものが流れる。絵本は絵がオーバーなこともあり、想像がしやすかった。けれど、その創造には個々によってジャンルや物語の雰囲気が異なり、私は近所のおばさん、少年、犬、お父さんなどのたくさんの視点からそれぞれ展開されているのだろうと推理したが、友達は一人が沢山の場所を旅する話だと解釈していた。同じ絵を見ているのにそれぞれが違う考えを持つなんて面白い。これは絵本だけにかかわらず、同じ本を読んでも意外と一人ひとりが受け取ることは案外違うのかもしれない。文章や絵を無くして読むのは読書の楽しみ方の一つで、普通の読み方なんてないから縛られずにたくさん試してみたいと私は思った。そのとき私は、もしかしたら書いてあることをそのまま受け取るのではなく、心情や様子を想像することこそが読書が特別に楽しめる方法なのかもしれないと思った。
私は五年生のとき、「大造じいさんとガン」という物語文の勉強をした。そして、教科書の文章と映像を見比べてみるということを行った。クラスメイト達はきっと本よりも映像の方が良いと思うのだろうと予想していると、友達は全員、本の方が良かったと言っていた。
「こまかい花が咲いてるとかの『心情描写』の表現がない!!」
「教科書に忠実じゃないんだけどー!」
とか予想に反して結構動画は、みんなに叩かれ、不評であった。しかし、実際私も教科者の方が良いなと思った。なぜなら、教科書にはでてこない坊主が出てきて、
「大造じいさん、悲しいのかぁ?」
等という。そのせいで主人公である大造じいさんの思いが『悲しい』の一つになってしまう。私はその時の心情を、複雑な気持ちだと思っていたから、そのアニメーションを作った作者の解釈で、決めつけられるのは嫌だと思った。確かに映像には分かりやすく表情が見られるという長所があるけど、それ以上深堀して広げていくことができないという短所がある。世界により入り込めて楽しみが広がるのはやはり本だと思う。読めば賢くり、さら、創造ができて楽しい本こそが最強だと思う!!(笑)
人間にとって読書をするということは想像力を養うために大切なものである。
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中1の代表作品
AI森リンベスト10
自分の見る世界と他者の見る世界
中1 はる(akiiko)
2026年4月4日
自分の見る世界と他者の見る世界
私たちは日常、コインを「丸いもの」として疑わずに受け入れている。しかし、視点を変えて真横から眺めれば、それは「薄い長方形」という全く別の姿を見せる。筆者は、このコインの例えを用いて、人間の認識がいかに「ある立場からの有限のアプローチ」であり、一面的なものであるかを鋭く指摘する。自分の認識が限定的であることを自覚し、あえて別の角度から物事を捉え直そうとする想像力の営みを、筆者は「レトリック」と定義した。価値観が激しく対立し、相互理解が困難な現代において、自分の正しさに固執せず、他者の視点から見える景色を想像する「レトリック感覚」こそが、新しい視野の獲得と共生のために不可欠であると説いている。
私は、物事を多角的に見ることはいいと思う。多角的とは、知識の問題ではなく、他者を尊重し、新しい価値を生み出すための「生きる姿勢」であると私は考える。
第一の理由は、多角的な視点を持つことで、行き詰まっていた状況を突破する「発見的認識」が可能になるからだ。例えば、多くの学生が直面する「ゲームの制限時間」という問題だ。
これまでの私は、一日一時間という制限を、単に「楽しみを中断させる邪魔な壁」や「親からの理不尽な押し付け」という、コインの一面的な姿だけで捉えていた。しかし、視点を変えて、これを「限られた時間内でいかに効率よくクエストを攻略するかを競う『タイムアタックモード』」だと再定義してみた。すると、ダラダラ遊ぶのではなく、事前に攻略手順を練ってからプレイするようになり、以前よりも高い集中力と計画性を身につけることができた。一つの行動に「別の名」を与えてみる表現方法の試みは、退屈や不満を感じる現状を、自分の能力を磨くクリエイティブな場へと変えるもとになるのである。
第二の理由は、異なる視点を想像する力が、感情的なすれ違いを防ぎ、真の相互理解を可能にするからだ。現代は自分の意見に近い情報ばかりに触れ、自分の正義だけを信じ、それに囚われてしまう環境にある。
私は以前、オンラインゲームの対戦中に親から「早くご飯にしなさい」と叱られ、激しく反発したことがある。「今抜けるとチームに迷惑がかかる」という自分の正義だけに固執していたからだ。しかし、ここでレトリック感覚を持って親の立場を想像してみると、親にとっての正義は「温かい食事を家族で囲むこと」や「子供の健康管理」にある。親は私を苦しめたいのではなく、別の価値観で私を気遣っていたのだと気づいた。自分の視点という「檻」から一歩外に出ることで初めて、単なる言い合いではなく、「次は対戦が始まる前に声をかけてもらう」といった、どちらともの正しさを両立させる実りある対話が可能になったのである。
もちろん、自分の信念を貫き、一つの視点を深めることこそが誠実さであるという意見もあるだろう。あちこちに視点を移す態度は、統一感がないと批判されるかもしれない。しかし、フランスの哲学者アランは「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである。」という言葉を残している。不満な状況にイライラしたり、相手を拒絶したりするのは、ただの「気分」に流されている状態だ。一方で、どんなに困難な状況にあっても、そこにある「別の側面」や「解決の可能性」を強い意志を持って見出そうとすることこそが、多角的に見るということであり、アランの言う「楽観主義」の本質ではないだろうか。一つの正しさに閉じこもることは、一見強く見えるが、実は変化に対応できないリスクがある。
これらの考えを踏まえると私はレトリック感覚こそが、複雑な現代を懸命に生き抜くための知恵であると考える。私は、自分の見ている世界が、唯一無二の真実であるという偉そうな考えは捨て、コインの裏側や側面を覗き込むような謙虚な好奇心を持ち続けたい。他者の視点という未知のレンズを通して世界を捉え直す努力を重ねることで、私はより広く深い人間関係を築き、様々な価値観が響き合う社会の一部分を担っていきたいと思う。
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中2の代表作品
AI森リンベスト10
ラレルは、四つの仕事を (清書)
中2 あさくに(asakuni)
2026年4月4日
要約:「口は希代の怠け者」は言語経済化の原理をことわざにしたようなものだ。口がここまで怠け、作業をしたくないのは、ただただ面倒くさいからだ。日本語の「ラレル」は敬語などでも使われるように、非常に万能であり、使用者の我々から見ると単純に難しいのだ。この「難しい」を「簡単」に変えるために、「ラレル」を「レル」に変える現象が見られている。このような新しい「型」を承認するか、しないかと問われたら、答えは必ず「ノー」にならないといけないのだ。それは言語は何事にも保守的だからだ。
まず最初に古さの良さはその正しさである。古くから言葉に残る、「ことわざ」や「モラル」は何か否定・変更できない理由があるので生き残っていると思う。努力の根本をことわざ化したかのような「千里の道も一歩から」で考えてみてはどうだ。これは約2500年前に中国で作られた物ですが、皆さんは「よく今まで生き残っていたな」と思いませんか。普通、「リアル二刀流」のような一時的な流行語を今も使っている人は非常に社会の風潮に弱い人やレトロオタク以外考えられません。私の取り上げたものは約5年前のものですが、これが10年、100年、1000年とまでスパンを伸ばしていったら、もう覚えている人などはほとんどいないだろう。しかし少数ですが生存している物も残っており、それらは人間の本質を捉え、刺激しているからこそ継承されているのである。人間は誰しもいろいろなものを忘れ、過ちも犯します。これらを振り返り、多くの人たちは「生まれ変わったらこれを変えよう」などと夢を語る。しかし現代科学では輪廻転生やタイムスリップは証明されておらず、懐疑的な人も多いことでしょう。なので、人々は後世のため自分の失敗を二度と繰り返さないようにとことわざを作り出し、その言葉で今日も人々を奮い立たせているのである。
しかし新しいものにも常に物議をかもしてくれるという利点が存在する。現在2026年では様々な画期的な発明が世に出されており、世の中の多種多様な観点から論争が起きてる。このような現象は多くの場合新発明が保守的な世界に発表されたときに発生する。その理由は、古いものは嫌でも人々と馴染み、調和するからである。日本列島には古代から仏教が伝わっており、「諸行無常」など人々の思考にまで根を広げている。なのでもうここまで来て、「お釈迦さまはこの行為が人道的ではない」と声を上げても、ほとんど世には影響力が無いのである。自己肯定感の少ない方や恥ずかしがり屋の方々には耳の痛い話かもしれませんが、意見交換は衝突しないといけない義務があると思います。一方が引き、もう一つが採用されても一切進歩は無く、ほぼ無意味といっても過言ではない。実際に二つが互いに不協和音を発し、磁石のN極とS極のように反発しあう中、無理やりテープでグルグルにくっつけても良いのである。そうすれば未だかつてない、新たなものが息を吹くと思う。私もこの哲学の元、グループワークの意見交換の際に意見の衝突を求めたのだが、一人の意志が強い子以外皆いわば「逃げて」しまったのだ。しかしながら、私とその生徒だけでも一歩も引かない車たちの「交通事故」の後、新たな高みの答えを導き出した。
古いものの中にある「正しさ」や新しいものへの拒絶反応は素晴らしく、非常に尊い物だが、一番大切なのは「新古今」の三つにも分類されない人間を真に「向上」させてくれるのものだと思う。もちろん新たな物理的な物が発表されたら時の流れと共に衰えてゆくのがお決まりだ。だが、人の考え方、いわゆる「哲学」はいつの時代も共通するものである。この「人間の真骨頂」の疑問はルネサンスのヒューマニズムに共通する考え方だが、本当に我々は文明の進路を再度検討しなければならないと思う。今は亡き、車椅子の天才物理学者のステフェン・ホーキング博士が「今の状況だと人類はあと100年以内に地球から逃げないといけない」と警告するほど今の現状は深刻なものなのだ。最近では一歩外に出れば小中学生でもスマホを所持し、政治にAIが登場して来ている。このような時代の流れに身を任せ、本当に人類や地球は大丈夫なのだろうか。地球の最悪な末路を回避するため私はこのほぼ見えかかっている未来のシチュエーションをかわさないといけないと思うばかりである。
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中3の代表作品
AI森リンベスト10
手間の価値(清書)
中3 あおらえ(aorae)
2026年4月4日
科学文明の発達は、人間の日常から手間を省いていく。これまで人が経験していた手間の数々を片っ端から省いていった。あらゆるものがそろい、面倒なことは避ければよいから本能的なアンテナを張り巡らせることをできずになることで、決定する力がにぶる。便利さや快適さを求める人間の欲求が文明を発展させたことは事実だろうが、そのために有形無形の人間本来の資産をたくさん犠牲にしてきていることに、我々は気づくべきだ。手間を省く生き方をしている限り、生きる喜びは感じられない。生きる喜びとは、感性を研ぎ澄まし、自然の大きさと人間の魅力を日々発見することにある。だから、生きる喜びを十分に感じられる、手間を省かないような生き方をするべきだと思う。
そのような生き方をするための方法として、第一に人と直接会うということが挙げられる。ここ数年で、特にコロナウイルスの流行った頃合いからインターネット上でのやり取りが多くなった。確かにスマホ越しでも相手の顔をみられるし、また相手と会話することもできる。しかし声のトーンや視線は分からないから、そこにあるはずの微妙なニュアンスの違いが分からない。例えば、住民説明会をオンラインで開催するとしよう。対面のときよりも、参加者の表情や発言の際にとる行動、参加者の中での意見の交換をしにくい分、理解度は対面で開かれる場合に比べて劣る。対面で開く場合の情報の質や伝達の正確さは、同じ説明を行ったとしてもオンラインに比べて総合的に優れている。
第二の方法は、物を多面的に、より多くの視点からみるということである。すなわち、ある一つの見方に固定されないということだ。より手間にはなるが、固定観念をもって接するときと比べより多くの情報をつかむことができる。さらに、多面的にみることで、ものの解釈に余白が生まれる。その余白によって、別の解釈の余地が広がるために、同じものをより様々な意味で捉えられる。例えば、あるとき、どうしてもペン立てが欲しくなった。よく使うペンをより取りやすいところにおきたくなったからだ。既存品を買ってきてもよいのだが、僕は代わりに家にあったジャムの瓶を利用した。ゴミ回収の日に出せるよう玄関に置いてあったのを発見したもので、その後数年間は立派にその役目を果たしてくれた。
省ける手間を省かないと効率が下がるという意見がある。失敗する可能性があがる、時間がよりかかるという意見もある。確かに、それらはすべて否めない。十分に考えうることだ。どこかの窯で皿をいくら作ったとしても、ライン作業で大量生産する工場には敵わない。試みが失敗し、なにか失うこともあるかもしれない。しかし、アインシュタインは「価値あるものを手に入れるには、価値ある努力を惜しんではならない」といっている。効率が下がっても、じっくり焼いたほうがお皿は頑丈になる。失敗によって学べることも多い。アインシュタインは「成功した人間になろうとするのではなく、価値ある人間になろうとしなさい」とも言っている。確かに結果も大事だが、しかし、より重要なのはその過程で、そこに面倒な手間があるのだ。
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高123の代表作品
AI森リンベスト10
疑問を持つことの大切さ
高1 ちさたん(tisatan)
2026年4月4日
私たちは普段、どれくらい疑問を持って生活をしているだろうか。私は以前まで、授業中のふとした疑問を、素通りしてしまうことが多かった。なぜこうなるのかを深く考えず、答えを覚えることばかりしていたのだ。ただ、疑問を持つことを意識し始めてから、理解への速さも内容量も変わったと思う。
私たちは疑問を持つ意識を変えていくべきではないか。そのために考えられる方法は二つある。
第一の方法としては、より良いものを作るために新しい発見を見つけることだ。日本で生まれたもので有名なのは何だろう。実は、あの胃カメラも日本発祥なのだ。ある医師からの「患者の胃の中を写すカメラを作ってほしい」という依頼がきっかけだった。試作品は見事に成功したが、疑問の声もあった。当時のものは、固い金属製の管や柔軟性の低いワイヤーでの操作が必要だったのだ。それもあり、「レンズと管を入れることで人体に影響はないのか」や「鮮明な映像撮影はどうしたら実現するのか」、「身体に負担の少ない短い時間で撮影できるか」といった疑問が出ていた。こういった多くの疑問から、それらの解決を重ねて現代の胃カメラに繋がったのだと分かった。胃カメラの発展は、現在、消化器系疾患の診断に欠かせない診断器具として、胃がんや胃かいようなどの治療に大きく貢献している。もっと便利にできないかという疑問から、新しいものが生まれたのだから、欠点を発見した人、その疑問に応えた人は凄いのだろう。
第二の方法としては、本質的な理解へと導き、理解を確かなものにしようと意識することだ。数学でよくないことは、「パターン化を自分の中でして暗記をすることだ」とよく動画などで目にする。私も以前、数学でわからない問題があったが、「こういう文章題はこれ」と勝手に決めてしまったことがある。これが間違いでそのあとの演習問題が自力で解けなかった。応用が効かなかったのだ。またテストでも偶然に答えがあってしまい、解き方が成立しないからと点をもらえなかったこともある。だから、より理解を深めるために自らなぜこの式が成り立つのか考え自分なりに説明ができるのが最良の方法だと思う。そのときはじめて疑問を持つことができるのだ。そもそも公式は本当に正しいのかといったものも出てくるかもしれない。それを解決していくたび理解が深まるのだと考える。こうして考えていくと学者も常に疑問を作ることに努力をしているのではないかと思う。あの天文学者であるガリレオ・ガリレイが放った「懐疑は発明の父である」という言葉がある。それはあらゆる事に疑いを持ち探求することで、新たな発見が得られることを意味している。ちなみにガリレオは「地動説」を発表した人だが、なぜ人々の中で信じられていた「天動説」に疑問を持てたのか気になる。
確かに、素直に物事を受け入れる姿勢も大事である。疑問を持ってしまえば答えにたどり着くまで程遠いかもしれないからだ。けれど「疑問を持つことは遠回りのようでいて、実は成長への近道なのだ」疑問、調べる、理解するという流れの積み重ねが成長を進める原動力となると感じている。疑問は理解を深めるための出発点であり、新たな発見への扉でもあるのだ。私は、疑問を持つ良さを知り、自分の成長へとつなげていきたい。
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