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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   幸・不幸論   クラシック

 人生には、幸福保存の法則がある、とある哲学者が言った。不幸なことがあればその次には幸福がくるというものである。しかし、私はこの法則は間違っていると考えている。
 幸福にも不幸にも、質量などありはしないのだ。もし、幸福、不幸、がそれぞれワタアメのような塊であり、幸福と不幸はそれを交互に千切って定めているというのならば、なんらかの形で補給しない限りいつか幸福も不幸もきれいさっぱり無くなってしまうだろうし、現状のところ、不幸に不幸が重なることもあれば幸福に幸福が重なることもあるのだ。世の中には幸福と不幸の2種類しか存在しないのだから(普通は数えられないが、限りなく薄い幸福もあれば限りなく浅い不幸もある。日常はこの二つで成り立っている)不幸が幾重にも重なった後に幸福が来ても、それは法則には成り得ないと私は考えるからだ。
 不幸も幸福も、いつやって来るか全く予想できない。予想していた幸福というのは、予想しているときが一番幸せだということもある。遠足の前の日、中々眠れなかったが、来てしまうとたいして楽しくないという経験はあるだろうか。幸福の絶頂に突然やってくる大きな不幸もあれば。
不幸のどん底で見つける小さな幸せというものもかなり多々あるのだ。
 身近な動物、あるいは親族の死というものに出会ったことはあるだろうか。
 《死》は十分に予想できる不幸でありながら身近に降りかかるまで誰も深く考えようとしない。《死》が限りなく遠い存在であると考えているからだろう。しかし、実は死とは非常に身近な存在なのだ。私達は、個人で定められた回数だけ圧倒的に表の出やすいコインを投げ続けていると考えるとわかりやすい。表が表すものは生、裏が表すものは死。少し手元が狂ってコインを取り落としてしまえば、裏が出る。昨日までは元気だった子供の机に次の日には花束が添えられることだってあるのだ。
 私の家には犬がいた。私が生まれる前から家にいた中型の元気な雑種犬で非常に愛らしかった。ところが、そう、中学一年生のある日から、老化も手伝ってか急に元気がなくなりやがて死んでしまった。はっきり言ってショックだった。いつもぺろぺろと私の手を舐めてくれたその姿はもう2度と見ることができないのだと感じると、胸が杭でも打ち込まれたようにずきずき痛かった。
 私はいまでも自分を許すことができない。葬儀場で遺体を燃やすとき、いや、死んだと知ったときからずっと、何故か私は泣くことが出来なかったのだ。悲しかった。悲しみのあまりに呆然としていた。それでも涙はほんの少しもでなかった。
 もっと散歩してやればよかった、大切にしてやれば良かった、何か助けてやる方法があったかもしれないのに、と後悔の念は悲しみに比例して膨らむが、どうしても泣くことができなかった。
 その晩が、おそらく私が初めて死について考えたときだと思う。
 生きること死ぬこと。ある伝記には、全く同じと唱えた学がいた。それと同じで、不幸と幸福は同じものなのではないだろうか。すなわち、幸運=不幸。全く同じ存在が場に応じて姿を変えるため、不幸と幸福に分かれるのではないか?
 確かに今の私達にとって《死》という一つの不幸を身近な存在としてとらえることは難しいかもしれない。だが、それを考える必要がある。考えなければいけない。
 それがコインの裏側のように親密な関係を持つという事実は否定しようがないのだから。

   講評   jun


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