国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   とらえ方を一歩変えて   三毛猫みー

 テストとは良いものだと思う。よくそんなことをいったものだ。二、三年前のわたしならテストは悪いものであると即答したことであろう(笑)。テストといったら漢字、計算、読み取りなどなど。やはり勉強を思い浮かべるものであろうか。勉強が嫌いだった昔のわたしがテスト=悪いものという直結コースをたどるのは当然のことだろう。しかし、これは幼い就学者の意見である。教育者の立場から見れば社会人としての教養、将来の可能性への広がりなど生徒のことを考えればこそテストを行なうのである。だが、もちろんわたしは教育者ではない。彼らの考えを推測したところで、それが正しいとも、それに同意できるかともいえない。では、なぜわたしはテストを良いものと捉えるのだろう。
 第一の理由は、テストを行なうことで自己確認をしたり、やる気を持続したりできるからである。例えばわたしの場合。まず、勉強をつまらないとか思っていたような人間である。放っておけば何もやらずにのらりくらりのらりくらりと過ごしていたのは必然であろう。中学1年生。突然はじまった英語の授業がわたしにはちんぷんかんぷんだった。“How are you?” “I’m fine thank you” ハイッ? まったくもって未知の世界。守備範囲外である。まっ、当然のことながら分からないそのままで受けた初テストは悲惨なものであった。それに気づいた母があわててわたしをしごき始めたことは記憶の本棚の最前列に並んでいる(体験)。このような経緯をもってわたしは自分の学習の到達度が求められている成果にはるかに及ばないことを知ったのである。
 第二の理由は、テストを行なうことによってその本質をつかむことができるからである。さて、ここですこしテストという概念を勉強のそれから離して考えてみよう。テストにもいろいろある。例えば、走っていく車の運転席、助手席にダミー人形。その車が壁に激突、ガッシャーン。エアバッグが広がって人形はそのなかにドンッ。いわずと知れた自動車の安全性を試すテストである。新しいタイプの車が開発されたとき、なんのテストもなしにその車を世に出すバカはいないだろう。求められるものはスピード? 性能? もちろん、人の安全である。外見がいくらきちんとしていても何十キロものスピードを出す化け物をテストもなしに街中を走らせるなど狂気の沙汰である。きちんとテストを受けた車が走っている現在でさえ月何百、年何千の交通事故が起こっていることだろう。ここでいうテストは良い、悪いの問題以前に人間にとって必然である。
 確かに、テストが人を縛る。目標がテストでのよい成績になりその先の目標を思考の隙間に挟ませないなど悪い点があることは事実だ。だがそれはテストが悪いのだろうか。ソクラテスの言葉に人は食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのであるという言葉がある。そうなのだ。テストを良いものにするか、悪いものにするかはその人次第。それに振りまわされるのではなく、テストを己を高めるための道具として使う。それが、テストの良しあしを決める分かれ目となり、テストが良いものであるという条件となるのだ。

   講評   jun


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