創造と発表の新しい学力
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)
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我慢 れもん
誰もがよく知っている御伽噺「桃太郎」は、ある日おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは山へ選択に行きました」という語り出しから始まっている。この御伽噺が昔から変わることなく子供たちをひきつけてきたのは、波乱に富んだ冒険談の幕あけを、かつての日本人にとってもっともありふれた日常生活の一場面においた、その巧みな語りだしにあるのではないだろうか。こうした人間の身近にあって生活のさまざまな面で利用されるような森林を、日本人は里山と呼んできた。この里山は、長年にわたる人間の利用が、一帯の森林をクヌギをなどをはじめとする落葉広葉樹の二次林に変え、定期的な伐採とその後に起きる盛んな萌芽更新が長く繰り返されてきたことと、さまざまな資源伐採の場としても必要な時に必要な分だけを求める「摘み取り」によって利用され続けてきたため、人間によってきわめて集約的に利用されながら、けっして消滅することなく、長く維持されてきたことにある。西洋における自然の合理的制御とは異なる、自然への順応を支えてきたという象徴が、鎮守の森である。集落一帯の環境保存の急所ともいえる場所に鎮守の森が配置されていたことが今では知られている。
私はこの話を読んで、里山がけっして消滅することなく、維持され続けているなんてすごいな、と思った。
この「摘み取り」というところで、私はこの前やっていたニュースのことを思い出した。(要約)
そのニュースというのは、今年はある種類の安くておいしいはずのサバの量が減って、値段が高くなっているというものだった。今年だけではなく、毎年段々収穫量が減っているそうだ。なぜ収獲が減ってしまったかというと、「乱獲」が原因だそうだ。丁度、卵を産む頃の二歳前後のサバをたくさん獲ってしまったため、今はごくわずか生き残ったサバが産んだ卵から産まれたものしかいないそうだ。(聞いた話)
このニュースは里山が維持され続けてきた理由と全く反対なものだと思った。必要なときに必要なだけ摘み取ってきた里山と、たくさん獲れるときに後のことを考えずに、小さい魚まで獲り過ぎてしまったサバとでは全く反対だ。この里山とサバの違いは我慢をしたか、しないかの違いだと思う。我慢とは簡単なことに思えるが、とてもむずかしいことだと思う。例えば、朝も昼も夜も食べていなかったときに、目の前に二日分のお菓子をおかれて全部食べてしまうか、明日の分も残しておくかの違いだ。このたとえと、サバの話ではまるで、月とスッポンほどの差があるが(たとえ)同じ我慢というものでは共通している。人間は産まれてきたときは、欲だけをもって産まれてくるそうだ。もしも、里山もこの欲でたくさんの木が生えているからといって、必要以上に刈り取られていたら、たぶん今日まで里山は維持されていなかったと思う。
里山は、人々の後のことを考える優しさと我慢によって守られてきたものだと思う。走り出すよりも走り続けるほうが大変であり、走り続けるためには欲だけではなく、我慢が必要不可欠になっていると思う。
人間にとって我慢とは、何か大きなことをやるための少しつらい通過点だと思う。(一般化)私も自分の好き勝手にやるだけではなく、少々の我慢も大切にしていきたいと思う。
講評 nara
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