低学年から学力の基礎を作る
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)
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お互いが楽しめる空間 Puma
演ずる者と見る者、つまり演じられている舞台とそれを鑑賞する観客とを空間的に分離すること、そういう制度になれてしまうと、大相撲とか歌舞伎の楽しみかたに、はじめはとまどう。けれども、西洋の演劇や音楽にしたって、もともとは人びとでなんとなくざわついている宮廷の庭や居間で、あるいは街の芝居小屋や路上で、催しとして行われていたわけで、必ずしも純粋な鑑賞の対象であったわけではない。私は演ずる者と見る者を分離しないような社会ができると良いと思う。
そのためには、周りの事も考えることが大切だと思う。見るものは、周りにも見る者がたくさんいるはずである。私も、クラシックバレエの発表会で、演技をしているときに一番前の席で横の人と話しをしていたりする人をみると、見てくれていないのかと思うし、気分が悪くなる。会場では、「静かに」という案内もあるだが、まったく聞いてない人がいるのである。しかし、私もそういいながら、コンサートなどを見に行ったとき、ヒソヒソ話をしたりしてしまっているように思う。今思うと、「聞こえないだろう」というその声が、周りには大きく響いているのである。見ている人は、私だけではない。周りに大勢の人が演ずる者を見に来ているのである。それならやはり、周りのことも考え、見に来ている人皆で、静かに演技をみるべきである。
第二の方法として、見ているものと、演ずるものの交流があれば良いのではないかと思う。そうすれば、誰もが演ずるものに注目するように変わると思う。見ているものと演ずるものの交流がなければ、「ちょっとの間みていなくてもいいか」と思う人もでてくるようにおもう。見るものに、「ちょっとでも見逃したくない!」と思わせることで、見るものと演ずるものの境がうすくなっていくのではないだろうか。
確かに完璧にその境がなくなってしまってはいけないとは思うが、境がありすぎても、見るものの楽しさが少なくなるし、演ずるものの努力が伝わらなくなってしまうように思う。「花はだれが見ていなくても咲いている。」という名言があるように、演ずるものは見る者がいなかくても、一生懸命に演技をしているのである。それを見なくてはもったいないし、その努力をお金をはらってみにいって、無駄にするのもしかたがない。しずかに見るなどの、規則は守り、見るもの、演ずるものお互いが楽しめる空間をつくることができればよいと思う。
講評 kira
Pumaさん、こんにちは。バレエを習っているのですね。すてきだなあ。演じる側として舞台の上の視点を持ってるのですね。その立場から、「演ずる者と見る者を分離しないような社会」を実現するためには周囲への配慮や交流が必要だと考えたのですね。実感がこもっていて、いい文章です。
どういったものを鑑賞してるのかということで会場の雰囲気も重んじるゆとりがほしいよね。歌舞伎は好きでよく見に行きましたが、お弁当食べてにこやかな観衆もどんな場面でもそうなっているわけではないのです。ここが山場というときには、場内が「大向こうさん」になったようにひとつになって見入っています。感動を共有したという満足感もありますね。
Pumaさんのいう「見ているものと、演ずるものの交流」というものも上記のような一体感を指すのではないかと思います。
「演じる」という分野から離れた実例も出してまとめていくと、論旨にひろがりが出来ます。人を動かす、企画、といった分野はどうでしょう。
長文でとりあげている実例をはなれるのも効果的な方法ですよ。
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