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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   アップグレードの理由   FULLMOON

 妖怪の中に「もののけ」という種類があって、これは「もの」につく。そしてそれがつくと、我々はその「もの」を、むしょうに捨てたくなる。従って逆に、それをついていないものを見ると、むしょうに拾いたくなる。ところで、人類史をひもとくまでもなく我々は、その生活の主たる様態を、「拾う」から「捨てる」ことへ、大きく転換させつつあるのだ。「狩猟採集時代」から「消費遺棄時代」に至る期間の、どこかの時点で文明が、もったいを人為的に操作しはじめたのだ。妖怪もったいの養育と、専門家たちによるその見事な操作によって我々はあり得べからざる事態を楽々とこなしているのだ。
 物を大事にすることは大切であるという考え方がある。私たちが、何かを始めたとき、私たちはそれを大切にする。私の場合、野球を始めたとき、本当に野球を好きになっているから、道具を本当に大切にしようとする。もちろん今でもそうなのだが。よく子供はグラブをはめて寝るとかする。私達は、野球の道具が新鮮に見えて、尊いものに見えるから、異様に大切にする。「金の斧と銀の斧」の主人公も、自分の鉄の斧が新鮮に見えたから、上を求めなかったのだと思う。(昔話)
私が野球部に入ったとき、ただ先輩のキャッチボールやバント練習を見て、球拾いをするだけでも、それが新鮮に見えたから、部活に出るのが楽しかった。さらにはそんな中、1年生にキャッチボールをさせてくれる機会があろうものなら、本当に楽しんで、喜びを噛み締めていた。3年生が引退してから、自分たちにも試合に出られるチャンスが巡ってきたら、何が何でも試合に出ようとがんばった。
 しかし、それらが新鮮に見えなくなり、毎日のようにありふれてくると、それを大切にしなくなることもある。それがあるということが当たり前になってくるのである。そうすれば、扱いも変わってくるし、新しいものを求める。野球の道具も、その道具をずっと使って、使い古して、使いにくい点が分かると、その欠点を補った新しい道具を求めるものである。私は、2ヶ月ほど前まで、1年間使っていたバッティンググローブを買い換えた。それは、手のひらの面が布製だったので、イマイチグリップがしっくりこなかったからだ。だから、手のひらの面も人工合成の革で出来たものに買い換えた。
 今となっては、部活があることが当たり前になっている。逆に「今日も部活あるのかよ〜」と思うことが多い。毎日、ランニングをして、キャッチボールをして、バントして、トスバッティングして、フリーバッティングして、ノック受けて…という毎日が当たり前でつまらない。だからこそ私は、ありふれた部活の中に刺激というか、新鮮さを探しているのである。別のポジションについてみるとか、いつもは使わない予備のグローブを使ってみるとか、ましてや、新しいボールが入ったときも、新鮮さを感じる。
 つまり、この2つは連鎖して作用するものなのではないか。「世界中のどこかで、常に今、夜が明けようとしている。」という言葉があるが、やはり、日没と夜明けは、2つがあるから成り立っている(名言)。これと同じように、前述した2つも、結局は連鎖して存在するものではないだろうか。たとえばゲームソフトでもそうだ。新しいソフトが出て、人々はそれにハマる。しかし人々は、いつかそのソフトにも飽きる。そして、それのアップグレード版や、新しいバージョンが出る。ポケモンが良い例だ。最初は、「赤・緑」と2バージョンで発売された。それから、「青」バージョンがでた。出現キャラの数などが大幅アップされた「金・銀」のバージョンが出る予定だったが、諸事情により制作が遅れ、その間に、「赤・緑・青」をアレンジした「ピカチュウ」バージョンが発売。その後「金・銀」に続き「クリスタル」、さらには大改造された「ルビー・サファイア」。そして今は、「赤・緑」を「ルビー・サファイア」風にアレンジした、「ファイアレッド・リーフグリーン」がでているようだ。正直、世代が過ぎてしまったので、調べながら書くことになったし、訳が分からないほどたくさんでている。しかし、すべては「新鮮さ」と「新しいものを求める」の繰り返しだ。私は、リアルタイムにポケモンをやっていたのは「金・銀」の世代までだった。そのときも、「赤・緑・青・ピカチュウ」に、皆が飽き飽きし始めていたのは、薄々分かっていた。別のゲームに目が行く中、「金・銀」が出たことで、また子供はポケモンに没頭して行くのである。つまり、どんな社会にも「新鮮さ」と「追求心」の繰り返しが必要である。新しいものを求めなければ、成長はしないし、求めるだけでは、1つ1つが丁寧に見えないはずだ。今の私の学校生活、私生活で、足りないのは、そんなところなのだろうか、と思った今日この頃だった。(総合化)

   講評   kamono

物は大切にするべきだ、ということを考察するにあたり、野球部での活動を例にもってきたのは、面白かったですね。新しいグラブを買ってもらってうれしくて抱いて寝た、という経験はほとんどの子どもにあります。それをさらに進めて、学年が進むに従って、練習、試合への取り組み方が変わってくる、という方向へ展開させたのも、いいですね。
初めは球拾いをするだけで新鮮であり、次にキャッチボールに喜びを噛み締め、3年生が引退したら、試合に出られるチャンスが巡ってきて、何が何でも試合に出ようとがんばった。実感のこもった体験例です。読む者をうなずかせます。
やがて、それらも新鮮でなくなり……ということもよく分かります。そこまで、とても生き生きとした体験例です。しかし、次の展開から話がしぼんだように感じられるのが、体験例を活かしきれていなくて、惜しいです。
「新鮮さ」と、それが新鮮でなくなり、「新しいものを求める」ことの繰り返しだから、新しいものを求めなければ、成長はしないし……と、そこまでは分かるのですが、そのあと、「今の私の学校生活、私生活で、足りないのは、そんなところなのだろうか」で落着としてしまったのは、少し、安易でした。狭い学校生活に閉じこもらないで、もっと、広々とした思考を展開させてほしかったですね。これから長い人生を生きてゆく、という中での、あるいはこの社会という中での思考をしてみたかったですね。

毎月の学年別「森リン大賞」作品集森リンの丘 
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 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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