創造と発表の新しい学力
総合選抜入試にも対応。探究学習を超えた、新しい創造発表学習。
AI時代には、知識の学力よりも、思考力、創造力、発表力の学力が重要になる。

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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   自然の美   ルフィ

 美、という言葉は本来、自然の造化による創造物対して使われるものだ。ゆえにたとえば花一つ例にとって見たとしても、それが自然で創り出された限り、常に美という性質を備えているのだ。ところが近代の美を追求する姿勢を見ていると、どうもその基調にあるのは自然ではなくて自我のようだ。だから、私はもっと自然の美を大切にするべきであると思う。そのためには、以下のような2つの方法が挙げられる。
 まず一つ目の方法は、自然と触れ合う機会をたくさん作ることである。そうすることによって自然界の美に対する感覚を研ぎ澄まそう、という魂胆だ。さて、いきなり話は変わるが、私は雑草が好きである。だからなんだと怒らずに、とりあえずは最後まで読んでもらいたい(笑)雑草という言葉を聞いた皆さんのイメージは、きっと、名前も知らない草でなんかそこら辺に生えている抜かれるべきもの、といったものであろう。まぁおおよそあたっているし私が持っているイメージも漸近しているものがあるのであまり大言壮語は 言えないのだが、次のようなシーンを想像してみてもらいたい。—雨が降った翌日、久しぶりに早起きをして公園へ行ってみた。ぬかるみに気をつけながらあたりを歩いていたとき、ふと足元に目をやるとそこには一つの小さな雑草があった。その雑草の葉は細長く、葉脈が本の側面から見たページのように平行に走っていた。そしてその筋の上を、雨だれが一滴、また一滴と流れては落ちていった。しかしその葉は生命力を主張するかのごとく水滴が落ちるたびに上へ力強く跳ね上がっていた—筆不精のため情景を思い浮かべるのは困難を極めるとは思うが(笑)しかしそれでも分かった人はきっとそのような光景に心打たれたという、自然を細かく観察し、積極的にかかわろうと思ってきた人であるに違いないと結んで描写の出来をごまかしてしまおう(笑)
 第二の方法は美に順序をつけるような今の学校制度を取りやめることである。そもそも、私は学校の美術の時間が嫌いであった。なぜなら、無論私の(世俗内で言われている)美術的センスというものを持ち合わせていなかったこともあったが、何より自分の作品のよさが分かってもらえないことが大きな理由であった。一生懸命作った作品が例えばABC評価のCをつけられたとしたら、普通はショックを受けるであろう。つまり、私は一生懸命作り上げたものはそれはそれで一つの「自然体」であり、各々は何か一つほかにはない輝きを持っているということを言いたいのだ。美術の成績をつけている先生方は、近代だか何だかは知らないがともかく自らの価値観に照らし合わせてその理想に対しいかに近いかという基準で採点をしているはずだ。しかし、美の基準はその基盤にある自然のように、多種多様でとてもじゃないが一言で抱擁しえるものではない。同じように、美術の成績というもの自体がすでに、最初から無理な相談であったのだと思う。
 確かに美を追求するその姿勢には好感を覚える。しかし、どうしてものの存在自体が美しいということを認められないのだろう。「大量生産、大量売買、大量喪失」というのが現代のキーワードだと私なりに作ってみた。生産、売買は分かってもらえると思うが、「喪失」とは何だろうか。もちろん物質の喪失というものも大いに考えられる。だが、それに比例するかのように人の自然界に存在する美への憧れ、のような感覚も消えていっている。きれいな夕焼けを見て感動した人が何人いるか。朝靄が立ち込める中の大木に心動かされた人が一人でもいるのか。そんな人も、残念ながら場所すらも今はもうないのが現実である。

   講評   kira


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