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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   悪循環   クラシック

 あるオランダの評論家が日本を批評する際にまず、日本の若者がなぜ電子の世界に走るのかという問題を定義していた。日本における電子の世界は非常に現実離れをしている。なぜ、そういった極端な世界が構成されていったのか、彼はそれを日本人に愛国心に基く理に適った自信が無いからであると定義しその理由を掘り下げていった。確かに日本人には理に適った揺ぎ無い自信というものが欠けている。70年代に日本にあった先進国であるという絶対的な自信は国際的な賞賛と共にバブル崩壊がまるで濁流のように根こそぎ洗い流し、そしてその後にはぺんぺん草の一つも残らない有様である。日本人には外国に感化されたという歴史しか残らず、表面的なポジィティブシンキングを論ずる者や現実や確かな事実に裏打ちされない不可思議な自信を持つものが増えた(才能や実力のある若者は少なからず増長するものであるが、今日本にはたいして力が無くとも増長する若者が多い、これは、欧州などと比較して非常に珍しいもので、イタリアに5年近く滞在していた姉も日本人のこういった特性には首を捻っていた)こういった兆候はアメリカ人の特徴であるポジティブシンキングを日本人に無理矢理当てはめたために起こったものである。ただし、アメリカ人のポジィティブシンキングという思想は個々人の言わばアメリカ的なこざっぱりとした特徴にこそ会うもので、今現在の日本の若者に見える、極端なポジティブシンキングや後ろを見たくないから前に進むといった歪んだ前向きな思考は人にとって有害なものでしかない。これは私も日本人に自信が無いという根本的な理由であると思う。しかし、その後段に続く——そしてそういった事象に則する現実逃避が電子の世界を作ったのだという考えには賛成できない。電子の世界は現実逃避から作られたのではなく、元々あった極端な電子の世界が現実逃避に利用されたに過ぎないのだ。なぜならば、そういった世界が爆発的に成長し、極端に特化されていったのは、日本が天狗の鼻の上に居た70年代であったからである。
 実は、電子の世界のこういった極端な発展は、そもそも日本人の性質に則するものなのだ。この性質が確立されたのは明治時代までに遡る。長い鎖国時代のために外部の情報と遮断されていた日本は欧米などと比較して何百年もの時代的な遅れをとっていた。そしてこれに追いつくために福沢諭吉などが唱えた、言わば特化政策にその根本的な理由がある。人間が一人一人が広い事象にまず足を突っ込み、それを少しづつ深め、全体を総合して思想を深めていくのが欧米の考え方であるのに対し、日本は一人一人をそれぞれの分野に深くねじ込み、モグラのように、急激にそれぞれの分野を深めさせていったのだ。そしてそれは、特別特化した現実と、特別特化した夢の世界を作り上げて行った。これは非常に日本人らしい商売的な、そして実用的な政策であった。しかし、これは残念ながら一つの事柄に対しては合理的であっても総合に見れば合理的どころか有害であったのだ。物事は結局種類を問わないあらゆる事象を総合し考えることで初めて真理に到達しうるものであるが、日本人はそれぞれに特化することに固執したため、大学の研究生や教授も自らの扱う分野以外の物事を全く知らずまた興味も無く、ましてやそれ以外の一般人はそんなことなど微塵も知らずまた興味も無いというような弊害を生んでいったのである。
 日本にはいわゆる、アルキメデスやデカルトのようなあらゆる分野の知識を知る人間が非常に少ない。デカルトは自らの知識を総合してあらゆる分野の知識を一般人に分かりやすく伝えていった。一般人に分かりやすくということは、実のところ難しいことではない。ただし、そうした伝え方をできるのは知識を広く細部は曖昧に、ただしその趣旨と根本的な事象は確実に抑えた者だけである。なぜならば、何も知らない一般人の気持ちを理解するということは、日本人のそれのような研究者には不可能であるからだ。そして残念ながら日本にはこういった広い知識を持っていこうとする人間が生まれ難い。無論、それは日本人の特質とも言えるし特化政策のたわものとも言える。しかし、その最も大きな理由は他のところにあるのだ。
 先の段にも述べた通り、あらゆる分野の知識において日本人には実用的なものをとっていく傾向がある。それは、小学校一年生の算数から始まりそして永延と一人前の大人になっても続いていく。これは日本人の実用できな考え方などたいして価値は無く、そんなものは後々教えていけばよいという幻想からくるものである。それを裏付ける通り、今の日本の小学校には子供の興味を引き出すようなものは全く無く、むしろ丸暗記など、興味をそいでいく苦しい事柄ばかりがあるだけである。人間には生まれたときからの性質や成長環境などを総合して、興味を持ちやすい分野というものが存在する。これは、ただ放っておくだけでもその興味からどんどんと伸びていく。だが、実際、そういった分野に本当の価値があろうか、たとえどんな悪しき出会いであれ、将来、必ず伸びていく分野に、——それ単体に、本当の意義があるのだろうか。それは、自らの中にある他のあらゆる分野に及ぶ≪興味のある≫物事と総合してこそ初めて意味のあるものではないか。そして、才能を開花させうるあらゆる分野の興味を子供たちに芽生えさせるのは、子供たちが始めてあらゆる分野の事柄に触れる小学校やそれを掘り下げる中学校、高校であるにも関わらず、そういった面において、その教え方はあまりにも粗悪ではないだろうか。
 確かに専門に特化政策は実用的であった。それは日本の爆発的な成長が証明している。しかし、そこで止まるべきでは無かった。日本人は過去の成功に固執するのが三度の飯より好きな人種である。それ故に、日本人は成功したとたん、ぴたりとその成長を止めてしまうのだ。欧米が日々大きな成功と大きな失敗と共に進歩している時、日本はある一つの妥当な枠の中で大きな成功を捨て、大きな失敗をするりとかいくぐり、小さな成功と失敗を繰り返し、70年代から表面的に以外ではこれっぽっちも進歩していないのだ。そしてそれに巣くう根本的な原因の一つにさえ気づかずに、こんなはずではと首を捻りながら猿のように教育を組んでいるのである。

   講評   nane

 今回も力作。
 全体の構成としては、冒頭の早めの部分で問題提起を明確にしていくといい。目標としては第一段落の終わりには既にこれから何を述べるかが書かれているというのが理想。
 その後の展開は、その問題提起を複数の原因(又は対策)で論じていく書き方。
 日本人の、実用志向は、江戸時代までの古びた一般教養主義に対するアンチテーゼとして生まれた。明治時代も戦後も、時代の要求する変化があまりに急速だったので、それまでの日本文化との整合性を取る余裕なく近代化を進めざるを得なかった。しかし、現在は、そういう時代の長所も短所も総合できるだけの距離と余裕ができた。
 日本に、日本らしい教養性と専門性の総合が生まれるのはこれからかもしれない。
▲文章表現上の注意として、「日本人は……である」と書くと、単純化しすぎと受け取られる場合がある。
▲問題提起は、他人の問題ではなく自分自身の問題として考えると深まる。「自分も含めた日本人」という視点で書こう。

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 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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