国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく。

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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   自分を肥やす学問につながる読書   高原 八千穂

 事あるごとに、子供の読書離れが指摘されている。私の子供のころも、「今の子供は本を読まなくなった」と言われていたが、私の子供の頃と今日現在では、情報を入手できる媒体や、発信される情報の表現の方法もずいぶん違う。また、本を読めばそれでいいのかといえば、それは違うであろう。本に代わる媒体が増えている今日、必ずしも、本からの知識に固執することはないであろう。さらに、本を読むことが最終目的であっては何の意味もない。Aの資料は、読書をする姿勢の観点からの指摘、Bの資料は、読書を通じて学問はどうあるべきかを論じている。
 第一にAの資料では、日本独特の精神主義からすると、書物を読む時は正座をして読むということが求められてきたが人間工学には、正座が決して本を通じて内容を理解する知的作業に適した姿勢ではないことを記述している。日本の学校教育で育った私は、授業中に立ち歩いたり、トイレにいったり、頬杖をついたりしてはいけない。背筋を伸ばして先生の方を見て授業を聞く姿勢が、あるべき姿だと学んだ。背中にものさしを入れて背筋が曲がらないように正しい姿勢を身に付ける練習をするようなことも、我々の親の世代ではあったようだ。終戦当時、天皇陛下の声をラジオで流れた際、正装をして、居住まいを正して拝聴するということに通じているように思う。アメリカの大学の授業に出て、私がまず驚いたのは、授業のラフなスタイルだ。脚を前の椅子にかけていたり、ガムをかんだり、空腹時にはスナックを食べたりもする。これは生徒だけではなく先生も同じだ。かと言って授業がだれているわけはない。授業の出席をしない生徒には試験を受ける資格もない。日本の大学ではよくあるらしい代理の返答などあり得ない。授業は毎回ディスカッションを含めた大変内容の濃い充実したものであった。読書をする姿勢や格好など表面的なことにこだわりすぎて、読書を遠ざけていることが、問題ではないだろうか。また、今日、インターネットや、電子媒体など、あらゆる手段で情報を入手することができる。知識を得るための媒体や方法を、状況や、自分の好みに応じて、その時その時、自分が快適だと思うものを選択していくことが重要だと私は思う。
 第二にBの資料では、ただ本を読んだだけでは学問ではなく、無学に等しい。その知識を活用しなければ意味がないと指摘している。学問の本当の意味は、物事をよく観察し、道理を推究し、学問をもって知見を集め、人々と談話をして知見を交換することにあると記述している。私がなぜ今、学問を学びたいか、その意味は何かということに合わせて考えた。私は企業で、製品を開発するうえでの、使い勝手における問題を解決し、製品やサービスの質をあげることを業務としている。入社して十五年、現場での経験から、専門家としての認定を受けた。業務の中で必要となる知識は、取り入れてきたが、再度、学問から学び、知識を取り入れたいと考えている。その目的は、専門家として現場でよりよい解決案を導きだすため、より質の高い提案を出来るようになるためである。専門家として必要なものは、基礎となる理論や手法を理解し、さらに幅広い知識と経験から、その状況に合った解決案を導き出していける力だと思う。それが出来る人は、ただの手続きのうえの認定を受けていなくても、専門家であると私は思う。私の目指す専門家とは、ものを使う使い手と、作り手の橋渡し役となることである。今後より状況にあった問題解決に貢献するために、学問から知識を得ると同時に、自分と異なる立場、分野の人々と話し合う機会を持つことで物事を探求し、現場にその知識と経験を活かしていきたいと考えている。
 確かに現代は、視覚的なものからの情報があふれており、読書をすすめることも、以前より難しくなってきていると思われる。知識を得る手段としての読書を、形式ばらず、もっと自由な雰囲気で楽しむことが出来るようにすることは、読書への敷居を低くすることにつながるであろう。疲れた現代人はには、癒しをもとめて、リラックスすることが目的の読書もあると思われる。一方、学問の知識を得るための読書を考えた場合、本を読むこと自体がゴールではない。何のために本を読むのか。書物なりを通して得る知識が知識のままその人の中だけで終わってしまっては意味がない。生のデータはただのデータでしかなく、それだけでは意味をなさないのと同じだ。知識は自分の記憶の中に大事に陳列しておくものではない、今と将来を生きるための方策の基となるべきである。知識は使われてはじめて、発見を伴い、試行錯誤をすることで、新たな発想につながり、自分のものなっていくことを、業務の経験から私は学んできたように思う。自分を肥やすための学問につながる読書を私は心がけていきたいと思う。

   講評   nane

 冒頭で、自分がこれから何をどういう方向で書くか述べているのはいいところ。実際の試験では難しいけど、できるだけ全体像を最初に決めてこれからも書いていこう。
 アメリカの大学の授業の例は、いい実例。小中学校でも実験的にそういうランダムな机の配置や自由な姿勢で授業をしているところもあるそう。文化の異なる日本にはなかなか定着しそうにないが、自由な姿勢は大いに参考にできる。
 学問の意義を一般論ではなく自分の問題として考えたところは好感の持てるところ。こういう姿勢を打ち出すと、意見にも力がこもる。
 ところで、使い勝手の学問というのは、これからの新しい分野ですね。これからの使い勝手とは、掃除のしやすさ、廃棄のしやすさ、再利用のしやすさなど、地球にとっての使い勝手も含まれてくるのでしょうね。(話は変わりますが、グッドデザイン賞の製品というのは、どれも非常に使いにくいというのは何か理由があるのでしょうか)
 結びの段落は、よくまとまっています。表現もリズミカルで説得力があります。光る表現としては、「知識は自分の記憶の中に大事に陳列しておくものではない、今と将来を生きるための方策の基となるべきである」は、もう一工夫したいところ。でも、全体の内容がいいので、このままでももちろん合格です。

毎月の学年別「森リン大賞」作品集森リンの丘 
 自動採点ソフト「森リン」で上位になった作文を掲載しています。
 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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