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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   異質なものを受け入れる寛容さ   えうあ

 昨今、アメリカの政治にみる傍若無人さは目に余るものがある。この二十余年で、アメリカは、危険に偏った方向につき進み、軌道修正ができないところまで来てしまったように思う。もともと違うものを統一しようとすれば、必ずそこには摩擦が生じ、戦争へとつながる。この実例は、テレビをつければ、生々しい映像として、簡単に観ることができること自体、恐ろしいことであるが、それが、今日我々の世界の現状である。AとBの資料をもとに、今日の社会を生き抜き、日本人として、どのように将来に望むべきか、その方策について考察を述べる。
 Aの資料は、多元な理性を認め、それぞれの集団における目標を共存させることが、現代の人間に望むことであると論じている。日本に生まれ、日本に育った私が、高校卒業後にアメリカに行き、驚いたことの1つに、人々が違うものを違うものとして興味を持ち、違うままを受け入れるということであった。異国からやってきた私の発言には、「とても違う」ものとして興味津々に耳を傾けてくれた。人と違うこと、”Unique”であることは、むしろ肯定的なほめ言葉であると、私は感じた。人と違う意見を主張することよりも、人と協調することが大事だという暗黙の了解の日本の文化の中で、育ってきた私にとって、それはいい意味でショックであった。考えてみれば、アメリカは、大きな土地に夢を求めて、世界中の国から人が上陸し、開拓してきた国だ。それからまだ2百数十年前しかたっていない。民族も、慣習も、文化も、宗教も、肌の色も異なる人々が同じ国に住んでいる。隣の人と違って当たり前というのが前提であるため、異質なものを異質なまま受け入れる土壌があるのだと、私は感じてきた。それが、私が体感してきたアメリカだった。もともと違う国で生まれ、違う場所で、違う価値観のもとで、人としての歴史を刻んできた異質の人々が1つの地球の中に存在しているのだ。違うことが当然であるのがスタートラインであり、そこから、どう意志の伝達をはかろうか、と考えるのが次のステップであろう。
 Bの資料では、日本人は、異質な思想を次から次へと受け入れていく一貫性のなさを問題視している。アメリカにいたころよく私は、あなたの宗教は何か?と質問されたことがあるが、国をあげて信仰深い国々の人たちに、特別な宗教を持たないことは、理解できないであろう。日本人は、クリスマスも、初詣も行事として楽しむし、葬式は、全く信仰がなかったお寺で催されたりする。キリスト教徒でも、神道徒でも、仏教徒でもない、日本人の大半が無宗教であると言っていいだろう。私もその一人である。あまりというより、全く、宗教というものにこだわりがない。人としていいこと、悪いことをわきまえる道徳は人間として必要であるが、それは宗教とは切り離して考えられるものだ、むしろ、切り離して考えるべきだというのが自論である。日本には国をあげて一つの宗教に傾倒する文化がない。これは、生まれ持って身についてしまっている、特定の宗教や思想の偏見なしに、問題の本質を問うことができるという利点を備えていると私は思う。この強みを活かして、異なるものを異なるまま許容する寛容さを持つことが、将来の方策への基盤になると思われる。
 統一と多元化の許容は、捉える場面によっては、対極に位置することとなる。確かに統一によって、ある限定した状況下において、物事が迅速に進むようなケースもあるであろう。しかし、人類が生まれて、これまでの歴史を築いてきた道のりがある。これは、その集団や民族にとって変えることができない歴史であり、基盤である。この基盤を統一することは、不可能であり、統一することに何の意味もない。基盤が違うことを容認することではじめて、同じスタートラインに並ぶことができるのだ。その上で、隣の人と、どう話し合っていくか、どんな言葉を使おうかという次元において、コミュニケーションのための共通の枠組みは必要であろう。特定の集団の利権が根底にのぞく偏った思想の元に掲げられる自己中心的な「統一」は、人間の生活を考慮した、より生活しやすいための枠組みの共通化ではなく、未熟で稚拙なおもちゃの取り合いと同じだ。無意味で我侭な「統一」のために、これ以上血が流されることを、人間として許してはいけないのだ。

   講評   nane

 「違うものを統一しようとすれば摩擦が生じる」という冒頭の問題提起はわかりやすい。
 アメリカでの異文化体験は、生きた実例です。考えてみると、日本とアメリカというのは、対極にある文化を持っているようですね。
 Bの文章は、一昔前だと「だから、日本はダメだ」という捉え方で読まれたものですが、今は正反対の捉え方ができるようになってきました。キリスト教とイスラム教のように宗教を理由にした相互批判が目立つようになると、なおさら日本人の無宗教のよさが感じられるようです。
 結びは名言になっています。「自己中心的な統一は……枠組みの共通化ではなく……」というのはいい文です。「未熟で稚拙な」や「無意味で我侭な」のように修飾語が続けるよりも、一言で書いていく方が印象的になります。
 今回も力作。文章が安定しています。試験を受ければ合格です。
▲意思の伝達。

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