国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   固有名詞   ルフィ

 固有名詞を持つということは、それが社会の制度の中に入り、ある組織に所属するという意識を植え付けられるということである。特に名前などというものは、その中でもぬきんでた地位を獲得していて、まさに名前にアイデンティティが存在するといっても過言でないほどだ。しかし、近年、その固有名詞を軽視する傾向が社会にあると思う。これは憂慮すべき問題であるからこそ、今その原因を探ってみたいと思う。
 一つ目の原因として考えられるのは、現代社会があまりにも多くの価値観を持ったがために、自分らしさを見つけにくいという点である。例えば、学校のクラス内などで、自分の事を指す固有名詞を持っている数が少ない人、というのは大抵クラスに溶け込めていない(稀に例外あり)それは、他人から付けられるニックネームというものは概ねその人の性質などを表しているからである。ちなみに私の場合は「おやじ」であるが(笑)とにかく、現代の多様な価値観に翻弄され「自分」をクラスでうまく表現できていない人は、周りの人からあだ名を付けられる機会もないのである。まぁあだ名が全てだとは決して言うつもりなはないが、それでも一つの指針として捉えることは出来る。
 また、二つ目に社会全体の風潮(特にネット上)に固有名詞を自らつけられるというものがある。要はハンドルネームを容認する傾向があるのだ。このハンドルネームというものは、自己の性質をアピールするために使われているのではなく、むしろ隠すために使われるものだ。自分の好きなキャラクターの名前を使う、といった具合に。すると、それは他人の目から見た「人」ではなく、自身が願望する「もの」なのであるから、正確な自己認識ができなくなってしまう。結果、巷で起こっているような事件が発生するのだ。このように、固有名詞を軽視して安易に扱っていると、いつかとんでもないことが起こる・・・かもしれない。
 と、言いつつも確かに固有名詞によって人々を管理していくのも、度が過ぎるとあまりよくはないと思う。だが「名前は、個人を縛るものではなく、個人を示すものでなくてはならない」のであって、私たちが「だれだれだから」といった固定観念を捨てさえすれば、名前も一挙に便利なものへと変容するのである。名前が、私たちの行動を束縛するのであっては、ならないのだ。

   講評   kira

 ルフィくん、こんにちは。自己確認ということは様々なテーマに登場しますね。現代社会はそのアイデンティティの確認が困難な時代とも言われます。
 近代の哲学において理性的な自我というものが認められましたが、今となってはそれも疑われているね。構造主義の勉強をはじめているようだから、ソシュールやフロイトのあたりで、この話題にふれているのではないでしょうか。難しいけれど、ひきこまれるね。私も大学に進学して夢中になりました。
 だから、いっそ「固有名詞」に個性や自我を求めすぎる傾向を憂慮するような意見にした方がすっきりしたかもしれません。一段落目のおわりの「社会問題」と結論の部分での主張がずれているような気がします。きっと、書いているルフィくんは「固有名詞に重きを置くな」の意見に傾いていたからだと思いますよ。
 あだ名が持っていた個性と、新しい時代のハンドルネームといった匿名性のある名前の特徴を比較して述べていったのはおもしろいね。
 これらふたつの大きな違いに無頓着な私たちに、危険が潜んでいる気がしますね。
 

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