国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   手助けを使いこなそう!   ノンキィ

 「あ、手助けせな……。」
私が毎朝学校へと向かうバス停で、白杖をもちサングラスをかけたおじさんに時々出会う。そのおじさんを見かけたとき、私はいつも「今日こそはあのおじさんの助けになろう!!」と意気込むのだが、あまり行動力のない一中学二年生に過ぎない私にはなかなかその思いを実行することが出来ない。これは単なる私の情けない話なのだが、今回「手助けとはなんだろう」ということについて考える上で、私の体験は大いに役立ったと思う。(体験実例)いったい、手助けとはどのようなときにすると喜ばれるのだろう。そもそも手助けという行為は何のためにあるのだろうか。普段考えても見なかったことが急にふしぎに感じられてきた。
 「手助け」という言葉はぱっと見た感じプラスのイメージがある。そして、実際にそうである。困っている人を助けること、助けを必要とする人々に救いの手を差し伸べること。これらは当然「手助け」の一部だといえる。実は冒頭の私自身の体験談には続きがある。私が張り切って決意しているあいだに、その場にいる誰かが必ずその人の手を取り、その人が無事に座席に座るまでエスコートするのだ。たとえ雨の日であっても、そのおじさんの座る席がないときにはいつも誰かが立って席を譲る。そういうさりげない「手助け」が自然といいムードを作り出す。よって私はそのようなとき必ずいい気持ちになる。誰かが何かの理由で困っているとき、それをいち早く察し、すっと手を差し伸べる。これこそ「手助け」の真骨頂であるといえる。もちろん時によっては相手の困っていることが目に見えないケースもあるだろう。そんなときはもしかすると自分が気づかないだけで、ほかの誰かがその人の思いに気づいて「手助け」をしているかもしれない。自分が手助けをすることが出来たなら、それはそれで言うまでもないのだが。(複数の意見一)
 ここまで手助けという行動のプラス面を挙げてきた。けれどもそこで私はふと思いついた。もしかすると手助けにはマイナス面もあるのではないか、と。なぜなら、皆さんにはこのような経験がないだろうか。手助けをしてもらっているのはわかるが、はっきりいうと大きなお世話だ、と感じたこと。また、助けてくれなくてもいいのに・・・・・・と思ったことなどがそうだ。「手助け」は良いことのはずなのに、どうしてこのような感情がわいてくるのだろうか。それは、手助けにマイナス面があるからなのではないだろうか。手助けのマイナス面。それは、私たちの周りを見返すと割とたくさんあるものだ。例えば、まだ自分で感情をコントロールすることも物事を判断することも出来ない小さい子がいたとしよう。その子がだんだんと成長し、いろいろなことを学んで多くの知識を吸収していく中で、周りの大人がその子の未来への道のりに一本道のレールを敷いてしまったらどうだろう。つまり、その子が何かをしようとするたびに周りにいる人が、それはああしなさい、こうしなさいというパターンである。そういう風な環境で育った子はいったいどのような大人になるだろうか。きっと、物事を自分では判断できない優柔不断な人になってしまうだろう。現代の日本の若者は「指示待ち症候群」に侵されているといわれるが、それもひとえに手助けのマイナス面が暴れているせいかもしれない。(複数の意見ニ)
 けれど、ここでちょっと立ち止まって考えてみて欲しい。果たして「手助け」自体に良い悪いはあるのだろうか、と。ひょっとすると手助けとは道具のようなものかもしれない。例えば野球のバットは道具である。しかし、このバットは使う目的によって、使う人によって全く逆の効果をもたらすことがある。いうまでもなくバットは球を打つためのものであり、野球選手がそれですばらしいホームランを打ったらその選手は多くの賞賛を浴びるだろう。けれども同じバットを、人を殴る凶器として使ってしまったらどうだろう。そんな行為は人間として決して許されることではない。したがってその人に残るのは深い後悔と絶望と他人からの中傷だけであろう。つまり、手助けもこれらと同じなのだ。手助け自体が良いのでも、悪いのでもなく、それをする人自体が良いか、また使い方が間違っていないか、が最も重要なポイントなのではないか。
 「カメラマンは、レンズのほこりを払う前に目のほこりを払わなければならない」という名言がある。今ここで言っている「手助けは道具である」という論もこれにぴったり当てはまる。つまり、手助けをするときに、「手助け」という行為自体に善し悪しを求めるのではなく、それを実行しようとする自分の力量やレベルに問題がないか確かめるべきである。基本的に世の中で日々行われている手助けと呼ばれる類のものは、人々を幸せに出来るものなのだ。よって、自分が手助けをやったつもりでいても、相手に「おせっかいや!!」と思わせてしまうような場合には、そこで手助けをすることをやめてしまうのではなく、自分の胸に手を当てて、自分の行いについて考えてみてはどうだろうか。そうすることが出来る人はきっと、立派に「手助け」を使いこなせるようになるだろう。(総合化の主題)

   講評   nara

 ノンキィさんが書いてくれたように、私たちは「手助け」という言葉からまずは、いいイメージを思い浮かべる。善意の発露ということかな。しかし、その善意が必ずしも善に結びつくわけではないというのが、難しいところなのだろうね。理由はたくさんあると思うよ。一人一人これが善であると思っていることが違うということ。一人の中でも善と思うことが変化すること。「小さな親切大きなお世話」という戯言が広がったときに、嫌な空気を感じた人もいれば、心の底で大きくうなずいた人もいるだろう。「手助け」という道具を使いこなすのは難しいのだね。
 各段落の中身と論の展開には問題なし。いつもしっかり持論を述べているね。では、今回使った「道具論」から考えてみよう。例えば、野球のバットとしよう。赤ちゃんに成人用バットを与えたらどうなる? 野球に興味がない人、恐ろしいことを計画している人に与えたら? 野球に使うとしても、ホームランをねらうのかヒットねらいなのか、もしくは、体格のちがいによって、選ぶバットが違うだろうね。ホームランをねらって外野フライに終わることもある。地味だけれど、こつこつと出塁を重ねる人がいる……道具に置き換えるということは、比喩とも言えるね。これらの状況を「手助け」に置き換え戻して考えてごらん。もしかしたら、ノンキィさんはあまり野球に詳しくないかもしれないから、そのときは自分のわかりやすい道具に置き換えればいい。今回の作文で用いた名言の「カメラ」も、大きくとらえれば道具になるね。
 感心したのは、「おせっかいと思われたときに、手助けをやめるのではなく……」という提案をしたこと。これは、「おせっかい」という手助けをする側に向けられる批難だけでなく、「甘え」という手助けを受ける側への指摘にも関わってくるね。大切なのは、他者であることを認めた上で、思いを致すということではないだろうか。他者であることの認知をせずに、「こうすべき」「こうしてもらえるはず」となってしまうと、押し付けであったり甘えであったりするのではないかと思うよ。

 

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