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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   一対一の関係   ノンキィ

ユージーンは街の中に障害者がいることで、人の流れが変わらない街だった。そして、障害者と自然に向き合う街だった。障害者はずっと昔から同じことを主張してきたのだと思う。生涯を人間の一つの属性とし、人間としてまっすぐに見て欲しい、と。障害者にも「傷つけられる権利」があり、その権利を障害がどれだけ阻むかは、その時代の社会が障害者をどう位置づけ、その中で人と人との関係をどう作っていくかによって決まる。
 道を歩いていて、目の前に白杖を持った人を見かけたときや車椅子に乗った人を見かけたとき、私はいつもその人に気を使って、何か警戒態勢のようなものをとってしまう。また、例えばテレビでパラリンピックの様子を見たとき、雑誌や書籍に障害を持った人の様子を描いてあるものを見たときは、なぜか涙があふれてくる。このような感情はなぜわいてくるのだろう。
こんな話を聞いたことがある。これはある障害を持った人の話していたことだが、「日本人は障害者を特別視しすぎている。 私たち障害者がたまたまもって生まれた障害は人間の一つの属性に過ぎず、障害を持っているか持っていないかは、例えばある人が太っているかやせているかというような問題となんら変わりはないのだ。」という内容だった。(体験実例)私はこの言葉を聴いて一種の衝撃を受けた。私たちが普段障害者に対して抱いている感情、それは自分たちにしてみれば決して悪意はなく、何か助けられることはないかという考えに基づいた一見すばらしいものだ。けれどそれは障害を持つ人々から見れば場合によって不可解なものであるらしい。これはいったいなぜなのだろうか。
 実際に、困っている人を助けるという行為は善である。目の前で自分の力ではどうしようもないことに直面している人を見かけたときにその人の力となること。また、身近に限らず、偶然にもって生まれた障害のために不自由な暮らしをしている人たちに対し寄付金や物資を送ること。これらは決して悪いことではなく、むしろ大いに実行していくことを勧める。なぜなら私たちのこのような行動のすべてが障害者にとって邪魔なものであるとすれば、最近各地に出来つつある「ライトハウス」なるものの存在価値はないはずだからだ。ライトハウスとは目の不自由な人が充分に生活していけるように建てられた施設で、主に一般のボランティアの人によって支えられている。私も実際に訪れたことがあるが、そこはさまざまな形での目の傷害をもった人々の活気にみちあふれていた。もしも障害を持った人々が私たちいわゆる「健常者」の助けを全く必要としなかったら、そんな施設のニーズはない。したがって各地にいくつもそのようなハウスが建てられているということは、障害者が少なからずもわれわれの力を必要としてくれているあらわれだと思う。(複数の意見一)
 しかし現実はそう簡単にはいかない。私たちが全と思ってしている行動の一つ一つが傷害をもって要り人たちにとって不可解なケースがあることもまた事実なのだ。特に日本では小学校、中学校の義務教育の過程で「障害者の力になろう」という教育が他国に比べて過剰に行われていることも原因の一つになっているのではと思われる。もちろん先ほどから何度も述べているようにそれ自体は決して悪いことではないのだが。私はこの間、インターネットで「障害者プロレス」という競技があることを知った。障害を持つ人同士がその障害の重度にあわせて戦う競技だ。私はあまりプロレスには詳しくないのだが、「プロレス」というと何か激しくきついものだろうという印象を受ける。それを目の不自由な人や脚に障害を持つ人たちが実際に行うのだ。私はその事実を知って思わず「なぜ障害を持つ人がこのようなことをしなければならないのだろう」と思った。そしてこのような感想を持つ人は国内に何千人といるらしく、その競技が実際に行われるようになるまでには多くの反対があったと聞く。また、障害者が自分の障害をお笑いのネタに活動しているという例もあるそうだ。この場合も、障害を持っている人々には本当に申し訳ないが、それを聞いて私は、なんてひどいと思ってしまった。そんな映像は絶対に見たくないとそう思ってしまった。日本中には私と同じことを考える人が何万人いるだろう。そしていちばん悲しいことは、その何万人の中にそのような考えを「善」だと思い込んでいる人が少なからずいることだ。ところが、そのような声を聞いて実際にその活動を行っている障害者たちはこういったという。「われわれは好きでこのような活動を行っている。生涯を話のネタにするのと、不細工な顔をネタにすることの何が違うというのだ」と。最もな話である。つまり、私たちが障害を背負っている人のためにと思って行っている行為、あるいは言動が必ずしも本人たちのためにならないというパターンは星の数ほどあるのだ。(複数の意見二)
 私たちが普段障害者に対して持っている、あくまでも自分たちにとっての「善」の基準。けれども実際に障害を持っている人々は、その中に少なからずある障害に対する「差別意識」を敏感に察知する。だから私たちの行う行為に対して不快感を覚えることがしばしば起こるのだ。私たち一般に言われる「健常者」は深く考えるべきだ。障害者にも「傷つく権利」「傷つけられる権利」があることを。自分は障害者をどこまでも「庇護するべき存在」つまり言葉は悪いが「未完成な人間」だという目で見てはいないかということを。障害は人間のもつひとつの属性に過ぎない。大変な思いをしている人を助けないといけないという思いの中にその相手を弱者と見る自分は必ずどこかにいるはずだ。
 「辞書のような人間になることではなく辞書をうまく使えるような人間になることが勉強の目的である」という名言がある。障害を持つ人に出会ったとき、何も考えずに「助けないとだめだ」と思うのではなく、相手を気遣って相手が本当に必要としているときに相手が必要としている分だけの力をそっとその手に添えることが大切だ。障害者と私たち健常者の間に壁は一枚もない。むしろ壁を作っているのは私たちだ。そしてその壁は障害を持っている人と一対一で向き合って話が出来るような、心から対等に、自然に向き合えるように心がけることでたちまち取り払われるのだと思う。(総合化の主題)

   講評   nara

 今までの長文の中では、衝撃度の高いものベスト3くらいに入るかもしれないね。書きぶりは決して難解ではなく、むしろ、語りかけるような柔らかさもある。語彙も固くはない。しかし、この長文が私たちの心を打つ力は強大だ。実は、これこそが問題なのだね。「障害を持つ人を手助けすることは善である」という考えがいかに固定化されているか。その固さを打ち破るためには、より強い衝撃を与えなければならない。そういうことだね。おそらくは、ユージーンではこういうことを敢えて主張する必要もないだろうな。
 二つの意見はそれぞれ題材が具体的でとてもわかりやすい。ライトハウスの話は、少し拡大して考えるとまとめに活かせそう。高齢者・一人親・DV被害者……支えや助けを必要としている人に対する施設は、何も「心身に障害を持つ」ということに限定されているわけではない。ことさらに線引き(ノンキィさんは壁としている)をする必要はないのではないか。そう考えられるね。
 第2方法:私自身も試合そのものは見たことがないのだけれど、見たとしたら「楽しめない自分」がいるのではないかと思っている。そこにあるのは、続く段落「私たちは普段……」が指摘しているとおりだね。
 まとめもいいね。「相手が必要としている分だけの力を、そっとその手に添える」という部分は、静かだけれど強い思いが感じられる。「一対一」という題名に使われた表現もぴったりだ。いい意見文が仕上がったね。
 いつもその人に気を使って → 遣って 
 生涯の話をネタに → 障害の話
 最もな話 → もっともな話(尤もな話)

★7月の清書について★
 森リンの点数でいえば、2週目がダントツだね。これは、今までにも考えたことのあるテーマだったので、論が練れていたし、題材もうまくきまっていたものね。個人的には、今までとは違う視点を獲得できた3週目も好きだし、他の人にも読んでほしい内容だと思うよ。

毎月の学年別「森リン大賞」作品集森リンの丘 
 自動採点ソフト「森リン」で上位になった作文を掲載しています。
 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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