国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   テレビの落とした影   クラシック

 テレビの開発は画期的なものであった。ラジオの開発も画期的であったが、テレビは聴覚だけで無く視覚も使うという点で、より娯楽性も依存性も高く、正にその。大衆向けのテレビが開発されたのはアメリカ黄金期、いわゆるローリングトゥエンティーズ(1920年代)であり、元来の孤立主義にも関わらず、アメリカが世界における相互関係の中で大きな力を持ち始めた時代でもあった。テレビというメディアは、映像を媒体とするが故に理解が容易で、そのもっとももらしさのために大衆に疑わせる土壌を持たなかった。そして、またこれを媒体とするために人の心理や無意識にまで及ぶ強力な影響力があったのである。それを初めて世界に知らしめたのは言うまでも無くアドルフ=ヒットラ—であろう。彼はユダヤ人虐殺が、当然の原理であるという全く正当性の無い思想を実に巧妙に自国民に植えこんだ。そこで彼が利用したのがテレビである。ユダヤ人の映像を流している最中、十五分おきにテレビ画面にほんの一瞬だけゴキブリの映像を流す。これを何度も繰り返すのだ。ドイツ国民の無意識に、ゴキブリの映像とユダヤ人の映像が結びついて保存されるようになるまで大して時間は必要無かった。ヒットラーは、たった数ヶ月でユダヤ人虐殺の正当性をでっちあげてみせたのである。これはサブリミナル効果と言い、現在は無論禁止されている技法であるが、それでもテレビが国民の無意識に影を落とし得るという現実は今で変わっていない。
 テレビに距離や予測など関係無い。テレビを見れば、どんな国でも、どんな文化でも垣間見ることができる。だが、それがメディアという媒体に過ぎない限り、流されるのは所詮情報であって経験でも知識でもない。そしてそれがメディアという媒体に過ぎない限り、流される情報は公平ではあり得ないのである。
 そして、テレビはメディアでありながらその影響力が絶大過ぎるのだ。マスコミを味方につけることさえできれば、たとえ殺人者であろうが冤罪になり得る時代が来たのだ。つまり、テレビは自由気ままに正義を作れる時代になったのだ。テレビには私など無かった。
 情報を消費すると称される社会になった今こそ、その対策として発信された情報の元をまず洗ってみる必要があるのではなかろうか。テレビは娯楽でありながら娯楽ではない。そこには元日本行政の意志が反映されている。例えば親日、郵政民営化だってそうだろう。翌々考えてみれば実に理不尽でデタラメなことですら、テレビは肯定し得る。そしてテレビが肯定すれば、我々も首をコクンと前に動かすのが現状である。
 テレビが放映したのは真実ではなく、真実と思える虚構に過ぎなかったのではなかろうか。

   講評   nane


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 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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