国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   未来について   ポッター

本来の未来とは、なにが起こるかわからない「ああすれば、こうなる」で拘束されていない時間である。しかし、子どもが育ち始めると、母親はこの子をどの幼稚園に入れて、と考え出す。その幼稚園が終わったら、どの小学校に、そのつぎにはどの中学から高校へ、どの大学のどの学部へ、と考える。こうして「漠然たる」未来は、現代社会ではただちに拘束され、急速に失われていく。大人はそれでちっとも困らない。自分ではそう思っている。ただし、自分がどの段階でどれだけ年老い、どれだけの体力を失い、感覚がどれだけ鈍るか、それは手帳に書いてない。さらにいつ、どういう病にかかり、その結果、いつ死ぬことになるか、やはり手帳には書いてないのである。考えてみれば、その手帳がすなわち意識である。意識という手帳は、そこに書かれていない予定を無視する。いかに無視しようと、しかし、来るべきものはかならず来る。意識はそれをできるだけ「意識しない」ために、意識でないもの、具体的には自然を徹底的に排除する。人の一生でいうなら、生老病死を隠してしまう。人はいまでは病院で生まれ、いつの間にか老いて組織を「定年」となり、あるいは施設に入り、やがて病院で死ぬ。日常の世界では、そういうものは「見ない」ことになる。こうして世界はますます「ああすれば、こうなる」ものであるように「見える」ようになる。その世界では、意識がすべてとなり、時間はすべて現在化するのである。 私は、良い未来だけ、悪い未来だけを描いても、そんなに意味はない、むしろ、それが混ざり合っている方が良いと思う。
 理由の一つは、良い未来と悪い未来が混ざり合っているからこそ、社会は成立しているからだ。
 昔も今も、良いこと、悪いことが混ざり合う世界で、社会は成立してきた。特に、今はいろんな企業が発達してきて、それがとてもよくわかるようになってきている。例えば、〔ある人が会社を設立する→社員が入ってくる(働いて、社員は給料を貰う)→街に泥棒があらわれた(給料を貰ったばかりの社員に出会い、お金を奪う)→通報を受けた警察が泥棒を捕まえる(お金を貰う)というような感じだ。「良い未来」というと、まずは悪いことが起きないように、と思うだろうが、悪いことがないと成り立たない仕事もある。警察や消防が公務員なので、働かなくても給料は貰える(?)のだが、大変なのは弁護士である。
 弁護士は公務員などと違い、誰かが事務所(?)を訪ねたりすることがないかぎり、食べてはいけない。また、誰かがその事務所を訪れるのは、悪いことがあったからである。従って、弁護士はその「悪いことをした人」に感謝しなければいけないのだ。悪いことをした人に感謝をするのも変だが、それでなければ生きていけないので仕方ない。社会は、「ああすればこうなる」というふうに、決まりよく循環しているのである。
 理由の二つ目は、どちらか片方によりすぎて未来を想像したとしても、実際、完璧にその未来が実現するわけがないからだ。
 理由の一つ目でも述べたように、社会は決まりよく循環している。つまり、どちらかによるということは、その循環を壊すことになるのだ。
 良いことばかり想像して、それが現実になったとしたら、「悪い人がいなくなる=弁護士はお金が入らないので他の職を探さなくてはならない」「警察や消防もやることがなくなってしまう」ということが起こってしまうのである。そして、もしも急に悪いことをする人が出てきたらどうするのか。そのときに、警察や消防、弁護士という職に就いている人がいなかったらどうするのか。そういうことを考えなければいけない。
 また、悪いことばかりを考えれば戦争が勃発したり、次々に悪い人達が出てきたりして、「未来」がなくなってしまうということもある。「未来なんて考えない」という人もいるかもしれない。「自分は自由気ままに、そのときそのとき考えて生きていく」という人もいるかもわからない。しかし、本当にそれで良いのだろうか。あるとき周りに気付いても、手遅れだったらどうするのか。こちらはそういうことを考えなければいけないのだ。
 確かに、自分の将来や、良い未来を描くことはとても良いことだ。そして、自分の好きなように、時代の流れと共に生きていくのも良いことだろう。しかし、「多すぎる休息は、少なすぎる休息と同じように疲れさせる」という名言があるように、どっちもどっちなのである。未来が良すぎてもいけない、また、未来を考えなさすぎるのもいけない。今を大切に生きながら、未来のことや、それを思い浮かべるために社会にも目を向けてみる。いろいろなことに目を向け、自分に必要なもの、そして、未来のために必要なものを考えてみる。けして、どちらかによるのではなく、両方を同じように考えてみることが、大切だと思う。

   講評   inoko

ポッターさん、こんにちは。世の中はすべて連鎖しているという話。その通りですね。お電話で話したとおり、私も若いころそのことに気づいた瞬間があります。同じことをポッターさんが考えていると聞いて、何だかおもしろくなりました。今回のテーマは、どちらかの立場に立つのがとても難しい。どちらも必要な考え方だと思えるからです。未来の設計図をきちんと頭に置いて人生を歩むことは、人間としては正しい態度と考えて間違いないでしょう。また、一度きりの人生だから、設計図にとらわれて行動を制限されるよりも、その日その日を楽しく過ごすのがいいという考え方もなかなか魅力的です。では、どうしたらいいのでしょう。ポッターさんの意見に賛成です。人間、バランスが大事です。極端にどちらかに偏るのではなく、両方の意見を容認できるような度量が必要ですね。


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