国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   風景の中の建物、建物の外の風景   ルフィ

 人が旅において出会うのは、一つの風景である。だが、人は建築物があると、その様式や構造など知的関心のほうへ興味が行く。しかし、その建物だけでは今私たちが見ている風景を形成することはできない。家、建物、雲、山、川などが全体を形成したときに、初めて生きた景色、「風景のリズム」となるのだ。しかし、現代の世の中ではこのリズムを無視した建造物が増えてきている。私は、この現状は大いなる問題であると思う。
 ではなぜそのような事態が起こっているのだろうか。その原因の一つに、戦後の急激な開発、欧米化が挙げられる。私たちは、戦争で全てを失った際、新しい時代に対応すべく「日本的なもの」をおいてきた。そして、コンクリート製の建物などをどんどん作っていった。しかし、よく聞く話ではあるが、鉄筋で作り上げた建築物は日本の風土にはなじまない。なぜなら、湿度が高いため、コンクリートがうまくかたまらないし、また風通しが悪いため内部がじめじめしてしまう。そういった点では、正倉院の校倉造などのほうがはるかに優れている。と、このように新たな技術を乱用して言った結果、住みよくなるために発達してきたはずの技術を捨ててしまったのである。さらに、これは性能だけでなく、景観に関しても同じことが言える。私が中学生のころ、修学旅行で京都・奈良へいった。そこには、生粋の東京人の私からは想像もつかない、伝統によって守られた美しい町並みが、周囲の山々の新緑に彩られて残っていた。それに比べて東京はどうだろうか。たとえ六本木ヒルズの屋上から見渡しても、見えるのは灰色の町だけ。ぽつぽつと見えるビルの屋上芝生、街路樹などの緑は、場違いな感じすら受ける。町を練り歩いても、ラーメン屋の隣に老舗饅頭屋があり、その横には派手な看板の風俗店が立ち並ぶ。雑多な町。それをすばらしいと感じ、その光景を好む人もいる。しかし、それは本来の「建物」と「周囲」の関係を壊した末生まれた「偶然の景観」である。そして、少し体重をかければ割れてしまうほどの薄氷の上に立った物であるからこそ、妖しげな魅力を放っているのである。だから、それが決して景観との適合によって成された美しさではないことを、人々は忘れてしまっている。
 また、プラスとならない物を切り捨ててきた、資本経済の理念にも原因がある。分かりやすく説明するために、恐竜を例として挙げてみよう。なぜ恐竜はあんなにも巨大になったのだろうか。私の考える答えは単純明快、大きいほうが強いからである。時代は弱肉強食。自身が大きい体へと進化しなければ、すぐ他種族の餌へとなってしまう実状があったのだろう。つまり、必要だったから大きくなったのだ。同時に、恐竜に関しては、氷河期が来なくてもすぐ絶滅しただろう、という推論も成されている。すなわち、あの巨大な体を維持するためには、それ相応のエネルギーが必要であり、その補給源がやがてなくなってしまうため、ということである。彼らは、気づかなかったということである。自分たちが、周りの環境に合わなくなるほど大きくなってしまっていたということに(笑)。いや、これは笑い事ではないかもしれない。現に、今の資本主義経済は盲目的に利益のみを追求し、周囲の環境を省みていないではないか。その結果の集合体が、先ほど取り上げた東京、という街なのであろう。
  確かに、建築物を風景とあわせようとすると不便なことも沢山あるだろう。コストは馬鹿にならないし、安全面から見ても危険であることは多いはずだ。しかし「本当に大切な物は、目に見える効果をあげることはできないが、見えないところで確かに息づいている物である。」のだ。だから、私たちの先祖が、かつて持っていた物を取り戻すためには、まずやってみなければならない。目先の障害に捕らわれず、先に待つ景観を見越せなければならない。そして、それができる人こそ、未来という名の美しい景色に、すばらしい建物を造り上げることができるのである。

   講評   kira

 ルフィくん、こんにちは。かつて現象学に夢中であった頃とらわれていた言葉を思い出しました。「原風景」でした。そうして文学の上では、風景と情景の違いなどについて、さまざま考えておりました。よく言われるのが、風景は見た景観、そこに心が加わって情景ということですが、実は風景こそ、私たちが実際に出会った現実であり、その風景の前で生きた体験であったのです。それが損なわれ解体する事は、大きな問題ですね。
 戦後の復興で新しく創り上げられた街は、思想を持っていなかったのでしょうか。確かにヨーロッパを訪ねるときの圧倒されるような風景の重みもありませんし、猥雑ならそれなりにたとえば香港の市街のネオンのようなエネルギーも感じられない。これは何も隣の芝生は・・・といった感覚ではなさそうですよね。
 資本主義という猛獣ががっぷり飲み込んだ街が東京なのですね。その結果、人々は下町や横丁や、ビルの谷間に風景を探しに歩くのでしょう。そういったスケッチや写真集が多いね。
 見た目に小奇麗に整備することは、日本人は得意かもしれません。いろんな反省に立脚して、最近は景観賞といったものを建築物に授与したりするようです。やたらレトロを強調した建物も多く見られます。それらが、点ではなく有機的な街として息づいていくような試みが必要なのでしょうね。「風景」の喪失は、人々の「心」の喪失でもあるのですから。
  




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