創造と発表の新しい学力
総合選抜入試にも対応。探究学習を超えた、新しい創造発表学習。
AI時代には、知識の学力よりも、思考力、創造力、発表力の学力が重要になる。

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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   外国産か国産か   ノンキィ

 日本には、日米相互理解の邪魔をしているような迷信がある。外国人が刺身を食べないという迷信や、外国人には日本語が絶対話せないといったものだ。そして、日本人は外国人が日本のことを理解できないと一応嘆くが、同時に外国人が理解できないと思うとなんとなく優越感を覚える。これらは、悪意がなくても相互理解のために良くないと思う。
 最近、テレビのバラエティ番組などに出演する外国人タレントの数が非常に多いように思う。そして彼らの多くは、日本人にはあまりない高い鼻や色素の薄い目を持ち、あるいはとんでもない言い間違いやイントネーションの微妙な違いを売りにしている。そして私たち一般の日本人は、それを見てある種のほほえましさを感じる。また日本という国は、古代から異国の文化を取り入れ、それを自国流に変化させて活用することを得意としてきた。私たち日本人の他国との接し方や諸外国に対する意識にはとても興味深いものがあると思う。
 前にも述べたように、日本が大陸や朝鮮半島から受けている影響は日本文化のいたるところにちりばめられている。例を挙げてみると、漢字や書道はもちろん、国宝である東大寺正倉院にはギリシャのパルテノン神殿由来のエンタシスという技術が組み込まれているし、街中に何店もあるマクドナルドも戦後、アメリカから「輸入」されたものだ。また、逆に日本の文化も欧米やアジアに広がっている。お寿司や天ぷらなどの代表的なものをはじめ、浮世絵や俳句、和歌なども人気だそうである。だから仮に外国で「カリフォルニア巻き」が出来たとしても、日本の街にウェスタン風の建物が立ち並んだとしても、あえてそれらを否定する必要はない。異国の文化と自国の文化をうまく融合させることで、日本文化は成り立ってきた。今ここで、日本文化の中から外国産の要素を取り除いてしまったら、きっとかすかすで薄っぺらなものになるに違いない。だから私は、日本が外国のものを多く取り入れていくことはそんなに悪いことではないと思う。むしろこれまでのように、さまざまな国から多くのことを学び取って、日本の国の文化や産業を発展させていくことは好ましいことである。(複数の意見1)
 けれども、なぜ日本の文化がそんなに柔軟なのかと考えてみたときに、私たち日本人が2000年の歴史の中でずっと、「日本」という大きな普遍の考え方の下に暮らしてきたからだという理由にたどり着けることもまた、忘れてはならない。そうやって考えてみると、外国のものをどれだけ輸入しても日本人がいともたやすく受け入れるのは、結局は日本であることに代わりはないという意識が根底にあるからかもしれない。日本は他国と国境を接していない。一番近い朝鮮半島に行くのにも、奈良や平安時代には木造の船で何日もかけて危険な航海をしなければならなかった。だから私たちの祖先は、大陸の国々よりもっと、自国に対する認識—「島国根性」とでも言うのだろうか—が強かったのではないか。日本がこれから他の国々の影響を多々受けながら新しい文化を形成してゆく上で、適切な自国に対する誇りは不可欠である。神様に金と銀の斧のどちらを落としたか、と試されたきこりは、本当に自分に必要なものを見失わなかった。結果、どうなったかはいうまでもない。つまり、自国の文化を形成するときには他国の文化を取り込む前にまず自分たちのものを見直せよ、ということである。(複数の意見2)(昔話の実例)
  こうやって考えてみると、テレビの中で未熟な日本語を話す外国人に対し知らず知らずに優越感を覚えてしまうのも外国のものを大量に輸入して喜ぶのも、古代からの日本人のものの考え方と大きく結びついているようだ。「自分の心のうちに持っていないものは何一つ自分の財産ではない」という。国際化という大きな流れの中で、自分を見失わず、かつせっかく輸入したものを素通りさせずにしっかり活用し、それらすべてを飲み込んだ上に世界の人をうならせるくらい柔軟でしっかりした文化を創られるとよいのではないか。(名言の引用)(総合化の主題)


   講評   nara

 おもしろいね。こういうテーマはノンキィさんの興味ある分野なのだろうね。全ての人が、というつもりは毛頭ないけれど、京都に住んでいるということが意識に働いていることは、少なからずありそうだな。
 自分の属する文化に対する思いというものは、表出の仕方は違うけれど、それぞれに特別だと思っているという点では共通しているのだね。異なることにポイントを置くのか、異なっていてもそれぞれに自分中心になりがちであるという共通点にポイントを置くのか、そこをはっきりさせて感想文をまとめていけばいいね。
 日本人 → 自分たちの文化は特別で特殊で、他の民族には理解できるはずもない。
 アメリカ人 → 自分たちの文化は優れていていいものだから、他の民族も気に入る・受け容れて当たり前である。
これが違いだね。だけれど、どちらも「自分たち」を押し付けているという点では同じだなぁ。もし、個人レベルでこんな人がいたとしたら、どちらのケースも「は? 何様ですかぁ!?」と言われそうだね。ノンキィさんは、日本人に絞って論を展開させたのだね。
 第2意見がおもしろい。自国に自信があるからこそ、文化の輸入も臆することなくやれるというのは興味深い意見だ。一般的には「追いつき追い越せ。学ぶのだ。」というスタンスで捉えられることが多いものね。ここに現在に続く優越感の根を見出すとは、鋭いなぁ。
 「国際化という大きな流れの中で……」で述べた「飲み込んだ上で」というところが重要なのだね。その反対は「飲み込まれた」という状態かな。今回は論点にしなかったアメリカ人との違いについても、ぜひ考えてみてね。

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