国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   歴史と学問   ルフィ

 歴史とは、ただ過去の出来事が連綿と並んでいるだけなのではない。そこに歴史家の主観が入り込み、初めて歴史となりえるのである。だからこそ、我々は客観主義を捨てていかなければならないのだ。しかし、個人の価値観が行き過ぎると、今度は偏った歴史観を持つようになることが考えられ、問題となることが予測される。
 それを回避するための対策として、自分なりの目的意識を持って物事を見ることが挙げられる。先日、年度初の数学の授業があり、開口一番に、先生はこういった。「基礎がなくて、ここにいれば数学ができるようになるだろう、という考えの人は講座の取り下げを行ってください。ここは、考え方を鍛えるための場所で、申し訳ないけど、基本的な事項を教えるつもりはありません。」第一回にしてなかなかきつい一撃であった(笑)。しかし、これは捕らえ方によっては親切でもある。即ち、私が今日出た授業は、「考え方」を学ぶものであって、「基本的な知識」を身につけるところではないことを、先生がわざわざ提示してくれたのだ。歴史も、これに等しい。つまり、ある一定の方向性、目的を持って歴史を見ることは、そのベクトルの向きを意識している限り、「私」の中にはバイアスがかかった見方で歴史を見ていると意識する自分がおり、客観性を自身で持って保持していることになる。分かりやすく言えば、「おまえの見方は偏っている」と言う人間が、自身に内在している、ということだ。そうすれば、パラドックス的ではあるが偏った歴史観を持つことはないと思える。
 また、先の偏向した歴史観を、回避するためには、公の場で理解することも有効な手だと言える。つまり、「第三の目」を身につけるのではなく、周りの人に直接監視、助言してもらうと言う手だ。作家の村上春樹氏は、「趣味としての翻訳」、と題したエッセイで、次のようなことを書いている。「私は下訳(大意を訳した文章)を使わないんです。というのも、翻訳で一番面白いのは横になっている文章を、たてに起こすときのあの『ぎゅっ』とした感触で・・・。」つまり、彼は完璧に自身の解釈でもって英文を翻訳しているのだ。この点において、翻訳作家と歴史学者は似ている。すなわち、材料の使い方、捕らえ方によって、同じ物なのに、人が変わるだけで全く別の物と見えてしまうのだ。だが、彼らの間には、その解釈が第三者の目に触れられるかどうかという大きな相違がある。高名な作家である村上氏は、たとえそれが趣味で行われた翻訳だとしても(笑)多くが文庫などとして出版され、読者、批評家と他者の目に晒されることとなる。一方、歴史学者の発表した論文などは、筆者に近い考えを持った人が読む場合が多く、あまり参考にはならない。同じように、私たちも、この研究者たちに限りなく等しいのである。つまり、自身に賛同してくれる人にしか胸のうちを明かさず、加えてその考えの多くはアウトプットされることはない。だからこそ、公の場において、ディベートなどを通し、互いの考えの偏向性を指摘しあうことが大切なのである。
 確かに、客観的過ぎる物事や歴史の見方は、冒頭でも述べたように単なる事象の羅列になりかねない。しかし、思い込みは、人の目を曇らせ、より広い見聞を得ることを妨げる。「ルビンの壷」の顔が見えない人になってはならないのだ。「客観性を備えている人は、主観的な意見を必ず持っている物である。」つまり、バランスが大事なのだろう。自分の意見が、俯瞰図においてどのような位置にあるのか。それを知ることが、学問であり、そうして作られてきたのが、「歴史」なのだ。

   講評   kira

 ルフィくん、こんにちは。連休に入ります。忙しい中にも、自分の時間の使い方が出来るチャンスです。どんなことに使おうかなあと、考えるだけで豊かな気持ちになれますね。


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