国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)
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フィクションの真実とノンフィクションの事実 千代紙
ノンフィクションの書き手は、在るものを映そうとし、フィクションの書き手は、在らしめるために創ろうとする。ノンフィクションのライターにできることは、事実の断片を収集することでしかない。加賀乙彦のいう「真実」とやらに到達することは不可能であり、事実の核といったものを掘り出すこともできない。断片と断片のあいだはついに埋まらない。わかることもあり、わからないこともある。その断片の選び方、提出の仕方に、書き手の「人間」が混じり合ってしまわないか、という問いかけがあった。それに対しても、その通りと認めることでしか答は見つからない。「人間」の混入は不可避である。それはこの世に万人が認める唯一無二の絶対的な事実があるのではなく、個人にとっての事実しかないという立場を承認することでもある。つまり、ノンフィクションとは、事実の断片による、事実に関するひとつの仮説にすぎないのだ。
確かに、ノンフィクションには、事実をそのまま伝えるよさがある。
例えば、ニュースでは、アナウンサーの感情とか、シナリオを書く人とかの感情は、入ってこない。ニュースを見る人は、事実を知りたがっている。つまり、事実の断片をもらいたがっているのだ。しかし、そこに感情などが入ってしまうと、事実ではなくなり、真実になってしまう。そして、渡す人に、誤解をされてしまう。それを防ぐためにも、事実だけを伝えることが必要なのである。
しかし、フィクションは、より真実に近いものを伝えることが可能である。
例えば、日記。基本的に日記にはその日にあったことを書く。しかし、あったこと、つまり事実だけを書いていたら、それは記録となってしまう。だから私たちは、「記録」に、会話や感情などを入れ、日記にする。これを小説に置き換えてみると、ノンフィクションだけではどうしても伝わらないことを、本当は、その人物が思っていなくても、入れたほうが伝わりやすいことは、入れる。そうすることによって、ノンフィクションがフィクションにかわる。これは、「うそ」を入れていることになるが、これは、入れてもいい、というか、入れたほうがいい「うそ」といえるだろう。要するに、「うそも方便」というわけである。ちなみに、たまに私が書く日記(作文)には、必ずそれが入る。(笑)
また、わたしは推理小説が好きである。普通の日常生活ではぜったいに起こらないような不思議な事件がたくさんおこり、読み終わったときにはさっぱりしたような、他の本とは少し違う感動(感触?)がある。そのときに感動するのは、めったにおこらないことにめぐり合ったときの感動を疑似体験できるからだと思う。
確かに、フィクション、ノンフィクションのどちらにも、ちゃんとよさはある。しかし、本当に大切なことは、「カメラマンは、レンズのほこりを払うまえに目のほこりを払わねばならない。」という言葉があるように、相手に伝えるという行為に責任を持っていくことである。
責任を持って、フィクションにしたほうが良いか、ノンフィクションにしたほうが良いか決め、それに沿ってやっていくのが大切だと思う。
講評 takeko
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しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。
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