低学年から学力の基礎を作る
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)
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共生の感覚を養う うさぴょん
傷つこうが、自分の責任で「苦境に直面する」、それをイギリスの児童文学作家、ローズマリ・サトクリフは「傷つけられる権利」と呼んだ。このサトクリフの言葉に、役者は「目からうろこが落ちる」思いをしたという。しかし私は逆に、障害者はずっと同じ一つのことを主張してきたのだと思った。障害を一つの属性としてもつ人間を、人間としてまっすぐに見ると。彼女の言う権利を私なら、「経験を積み重ねてゆく自由を持つ権利」と呼ぶ。障害がこの自由をどれだけ阻むかは、その時代のその社会が、障害者をどう位置づけ、そのなかで人と人との関係をどうつくっているかで決まる。ユージーンの風は、そのことも私に教えた。
障害は国籍よりも大きい差なのかもしれない。日本の中でさえも障害者は少なからず視線を集めるからだ。障害者に対する態度は日本とこのユージーンでは異なっている。その根本にあるのは「共生」の感覚ではないだろうか。
ユージーンでは、「障害者に理解を示す」というよりビジネスライクな対応をし、障害者も非障害者も対等な関係を結ぶ。それは決してドライであるだとか無情で冷酷な訳ではない。それによって、一人で行動できるという自由な権利を手に入れるのである。<複数の意見一>
逆に日本であると、二つのケースが見受けられるように思う。障害者に手を貸しすぎる、あるいは全く手を貸さないというパターンだ。私は障害者、といえばそうなのだろうが老人に席を譲るなどができない。<体験実例>逆にそういう人たちに会うと声をかけてしまう、という人もいるかもしれない。これらは障害に過剰反応しているからだ。障害者の方を見る注視してしまう、そんな人も多いのではないだろうか。<複数の意見二>
共生、とは呼んで字のごとく共に生きることだ。老若男女、国籍、そして障害、それらは実はわたしたちにとって障壁にはならない。「問題とは、そこにあるものではなく、自分が作るものである」という名言があるように、自分で壁を作り出してしまう、故に生きづらくなってしまっているのではないだろうか。では障害のあるなしに関わらず誰にとっても生きやすい社会とはどんなものだろうか。それは居並ぶ差を差としてとらえないということではないか。そのためには「共生」の感覚を養わなければならない。養った人が増えれば差別、過剰反応もなくなるだろう。したがって、対等な関係を結ぶも過剰反応するも、共生していくということについて考えいくことが大切なのだ。<名言の引用><総合化の主題>
講評 nara
「障害は国籍よりも大きい差なのかもしれない」ここは鋭い意見だね。特に日本の場合は、古くから民族の交流が多かったわけではないし、その中でも比較的多いとされる中国・北朝鮮・韓国籍の人とも、外見上の違いはあまり大きくない。特別視されるのは、違いが見えやすいからということだね。
特別視したことによって、その反応が大きく二別するというところも、わかりやすくまとめた。注視することも目をそらすことも、過剰な意識があるからこそ起こる行動だということね。違いがあることは当然なのだけれど、その違いを「特別」と思いすぎる心理と社会の仕組みが日本の特徴ということになりそうだ。
今回のまとめはよく練ってあるね。「共生」という感覚はこれからの社会で重要になるはずだ。うさぴょんさんが考えたように、「共に生きる」ということは「同化する」のではなく「違いがあっても同じ社会に生きる」ということだものね。それは、日本という狭いエリアであっても、地球規模であっても基本は同じだ。さまざまな違いや差をいかに認め合っていくのかは、私たちに課せられた問題だね。
「バリアフリー」という言葉もよく耳にする。バリアフリーはハンディキャップのある人のためのものだと思われがちだけれど、決してそうではない。例えば、自動販売機の商品取り口やおつりの出口……古い機械は腰をかがめないといけなかったね。今は大人の腰の高さくらいになっているものが増えた。これは立っている人にも車椅子を使っている人にも使いやすい高さだ。共に生きるということが、「それぞれが我慢しあう」のではなくて「それぞれが生きやすい」ということを目指していけるといいね!
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