国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   みる   ノンキィ

 ある物事に興味を持ち、それを研究しようとするとき、まず誰しもがその形態や振る舞いに注目する。次いで、もう少し詳しい生存条件からその特徴を記述することを試みる。しかし、もし科学がその範囲で留まれば、しょせんそれらは記載的な博物学に過ぎない。必要なことは、ある現象の形態の奥に潜む 原理を追求することである。
 私達人間には、五感が備わっている。したがって当然、私達はそれらを駆使して新しい物事を吸収したり理解したりする。美しい花を目にすれば、目はそれを感じ取り脳へと信号を送るし、嗅覚や味覚のときも同様である。しかしこれらは何も人間だけの特権ではない。獣も鳥も、昆虫も皆同様のものを持っている。地球45億年の歴史の中のほんのごく最近に出現したにもかかわらず、人間がこれほどまでに栄えていられるのは、人間に高度な思考力が備わっているからだ。物事を追求し、他と意思伝達を図ることの出来る能力を兼ね備えているからである。けれども、それにもかかわらず私達は普段の日常の中で、何かを見た目だけで判断し、深く考えようとしないことがよくある。人間の脳は飾りではない。脳は考えるために存在し、それ以外の存在価値はないといっても過言ではない。だから私は、精一杯考えをめぐらせて、常識や先入観にとらわれることなく多くのものと接していきたい。(主題)
 見た目から物事を判断してしまうことは、私達が直面する様々な場面で起こりうる。私の場合、それはもっと身近で些細なことから実感された。二週間ほど前のことだろうか。私の共通の友達がけんかをして、互いに口をきかないという事件があった。仮にその二人をAさんBさんとしておこう。私はAさんの性格はよく知っていたが、Bさんの方はあまり知らなかった。さて、けんかの原因はというと、客観視すると非常にばかばかしいことについてBさんが怒っていたらしく、第三者の私にとってはいまいちその理由が分からなかった。したがって、Aさんの性格を理解している私にとっては、Bさんの勘違いが原因だったのだろうと落ち着き、今に至る。けれど今にして思えば、その原因はAさんの思い違いにあったのかもしれない。あるいは、他の誰かからみればこのけんかはもっと違うものに捉えられたかもしれない。何しろ、私が知っているAさんとBさんが、他の人からみてどのような人物かどうかなんて全く分からないのだから。何かが起きるときには必ずその根源に核があり、そこから糸がどんどんもつれ、絡まってゆく。だから、その核から奇縁する視点は全てどこかで連結しているはずである。だが、自分のみえているものは決して全てではないし、正しいかどうかも分からない。みえるものはもちろん、目にみえないものをもみようと試みる努力を、忘れずにいたいものだ。(方法1)
 そして、さらに重要なことはみえるものの取り扱いである。私達は普段、目にみえるものをさも当たり前のように脳に取り入れ、次々消化してゆく。けれど、どうしてそれは“みえる”のだろう。もちろんここで言う“みえる”とは物理的なものの他に推測による”分かる“要素も含まれている。例えば、他人と接するとき、その人の長所は短所よりも見つけにくいものだが、どうして短所ばかりで長所はみえないのだろう。それは、その人と接するときの自分の心持ちがかかわっているのだと思う。人は皆、相手の自分よりも劣っているところを探そうという卑屈な部分を誰しも持っていて、それが無意識のうちに顔を見せるのだ。目に付くものの存在意義を考え、その上で自分の心構えを変えてみれば、何か新しいものがみえるようになるかもしれない。ヘレンケラーは、目で物を見ることができなかった代わりに、サリバン先生や大勢の人の本当の心に触れることが出来た、と述べている。目にみえることは、いつも素晴らしいものばかりではない。しかし、それはたいてい自らの心構えによって変わってくるものである。相手の良いところと悪いところ、なぜそれらがみえるのかしっかり考えた上で人と付き合っていくのがよいのではないか。(伝記)(方法2)
 しかしそうは言えど、“人間というものは、結果から物事の善し悪しを判断する”生物であるから、そこに至るまでの過程や道のりよりも、己の目に映るリアリティーのある現実を重要視する人は多いだろう。むしろ、私はそれでよいと思う。大切なのは、第一印象がどうであれ、それに縛られずとらわれずにいることだ。私の好きな詩に、村野四郎の“花”というものがある。—いちりんの花をとって その中を ごらんなさい ああなんという美しさ こんな小さなものの中にも みちみちている清らかさ—道端に咲く花に、気にも留めず通り過ぎる私達人間。何かに出会ったら、それをじっとみてみること。その中でかすかにきらめくものを見つけること。それが出来たならば、人類の未来はもっと希望あるものになってゆくかもしれない。そう信じて、私も可能な限り五感を、そして思考力を働かせてみよう。(主題)(名言)(詩)

   講評   nara

 人の目は優れているけれど、劣ってもいる。便利なものは不便だという言い方を耳にすることがあるけれど、目にも同じことが言えるのかもしれないね。言葉の森の長文課題「ビワ8.3週」の長文も参考になるかな。目が見えるからこそ、見えないものがあるのかもしれない。これはヘレンケラーの話ともつなげられそうだ。
 「見る」という行為の中で、心に留めなければならないことは、いくつもありそうだ。まず、見えているものが全てではないということね。それから、同じものを見ても、同じよう感じるわけではないということも重要だ。例えば、私と誰かとがある人の行為を見て、どう感じるか? 同じではないね。また、ある人の行為を見て、不愉快に思うか何とも感じないか、私の心境や体調やその他の要因で変わってくる。
 それであっても、やはり、人間の目はすばらしいものであると思いたいね。まとめにあるように、人間の未来に希望を持たせてくれる窓となりうるのだから! 見るということについては、もう一つ長文課題を紹介しよう。「ニシキギ8.2週」も読んでみてね。

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