国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく。

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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   内申書を切り札に   ノンキィ

 「見て、ここ、ほんまは採点まちがってんねん。」
「ほんまや。先生に言ったらよかったやん。」
「でも、そういうこと言うと内申に響くんやって。」
まだ私が小学生だった頃、高校受験を間近に控えた姉と母の会話である。それを聞いていて私は不思議だった。間違いを指摘することが、なぜその人の評価に影響するのだろう。どんなに毎日頑張って勉強していても、入試当日に実力を100%発揮出来ない人がいる。生徒の日常の様子や成績を基に作成される内申点とは、そんな子供をサポートするためにあるものではないのか。これからの社会を担ってゆく私たち現在の“受験世代”が考え、訴えていくべき課題は数え切れない。そして同時に、普段の努力と一発勝負、そのどちらの引き出しも瞬時に開けるように日々奮闘していきたい。(主題)
 人としてのモラルや思いやりの心といったものは、テストの点数では測れない。どんなに勉強をせずとも本番には強い人、テストは苦手分野だが、提出物や授業態度は非常に優秀な人。あるいは、短期間の猛勉強によってうなぎのぼりに実力を伸ばす人もいる。一人一人、十人十色の個性を持っている。内申書とは元来、その個性を見抜いた上で記すものである。それがいつしか、採点ミスを申告することが影響するなどという、受験生にとっての脅威以外の何者でもなくなってしまった。私はそこに、今日の日本の重大な課題を見出した。有名私立校に入学し、これまた有名国公私立大学に入学すれば一生分の幸せは確保されたようなものだと考える親や教師、そんな大人に囲まれた子供達も、受験という山場を何とか乗りきることを最終ゴールのように考えている。大学に勤めている私の父は、昔からよくこんなことを言っていた。「最近の学生は、受験に合格したとたん勉強せえへんくなる。受験勉強で固めた基礎も、入学したときにはもうほとんど忘れてるんや。何のために一年きつい思いしたんや。」受験が全てであると思いこませるような社会の構造自体に、問題がある。それを根底から見直さないことには、内申の本領も発揮されず、受験生は生活態度の面でも“おとなしい”模範的な生徒でいなければならない。(方法1)
 かといって、自由奔放に学校生活を送る生徒達を温かく見守るだけでは、生じる問題点も多かろう。戦国武将、織田信長がもしも現代の学校に通っていたら。“鳴かぬなら殺してしまえホトトギス”も一つの個性ではあるだろうが、集団生活を営む上で認めるべきものではない。内申書や受験が、集団の中での本当の自由の意味を履き違えた子供に一定の緊張感を課すものであるなら、それ自体に問題があるとは到底思えない。私は中高一貫校に通っているため、高校受験というものがない。しかし、地元の皆は今受験前の追い込みシーズンだ。私たちがこれから、中だるみに陥るのではないかと懸念した学校の先生のおかげで、模試が増え、進度も速くなったのでなんとか緊張感を保っていられるのだが(笑。内申書はその意味で、生徒の背中を押しているのかもしれない。どちらかといえば追いたてている、というイメージだが。それの与える緊張の糸を張り詰めて、刺激のある学校生活を送る。それも一つの手かもしれない。(方法2)(伝記)(詩)
 どちらにせよ、日常生活まで評価されたくない、一発勝負が一番公平だという人もいるだろう。
しかし、自分にしかない個性を誰かに認めてもらえるというのは嬉しいことだ。“私たちの人生は、私たちが費やしただけの価値がある”のだから、その価値を最大限活用したい。そう思えるような内申書を、私たちは作っていかなければならない。私たち生徒側が自分のどこを評価してほしいのか、それは生徒にしか分からない。なぜ、今教育制度を担っている大人たちは自らが子供時代に感じていたことを忘れたのだろう。内申書は、ブラックリストではない。受験は、ゴールではない。そんな簡単なことを、どうして子供に誤解させてしまうのだろう。普段の努力と一瞬のきらめき、そのどちらをも兼ね備えた大人になりたい。そして、発展途上の子供たちを支える手になりたい。(生きる主題)(表現)

   講評   nara

 この作文を読んでいて、「偏差値」について思い出したよ。私たちは偏差値世代と呼ばれ、偏差値がコンマ1上がった下がったで、それこそ大騒ぎするような受験生活を送った。偏差値に振り回されているということで、「偏差値イコール悪」という図式で論じられることが多かったよ。しかし、偏差値は元々は「不合格となってつらい春を過ごす生徒を減らすために、できるだけ根拠のある進路指導・学校選択ができないか」ということから考え出されたものらしい。結局、道具をいかに使うかが大切で、道具そのものに非があるのではないのだね。
 内申書のための勉強ということになると、内申書がなければ勉強しないということになりかねない。これは、ノンキィさんのお父さんが嘆く「受験が終わったら」と同根だろうね。受験のための勉強だから、受験が終われば勉強しない。根本的には「何のための勉強か」というところが欠落しているところに、問題がありそうだね。「何のため」について考える機会があまりにも少ないということかな。
 大きくとらえると、受験のシステムが「長所を汲み取る試験」ではなく「ふるい落すための試験」になっていることも、原因かもね。なので、内申書はブラックリストと化し、受験勉強は「落ちないため・入るためだけ」になされる。今までとは、社会のあり方も子どもの数もずいぶん変わってくる。従来どおりのやり方を見直す時期が迫ってきているのだろうな。

毎月の学年別「森リン大賞」作品集森リンの丘 
 自動採点ソフト「森リン」で上位になった作文を掲載しています。
 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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