創造と発表の新しい学力
総合選抜入試にも対応。探究学習を超えた、新しい創造発表学習。
AI時代には、知識の学力よりも、思考力、創造力、発表力の学力が重要になる。

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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   “必ず”を求めて   ノンキィ

 先日、クリント・イーストウッド監督の“硫黄島からの手紙”を見る機会に恵まれた。太平洋戦争中最も壮絶であったといわれる、硫黄島での日米両軍の衝突。141分間、スクリーンの中で私が見たものは、数週間たった今も私の心に焼き付いている。太平洋に浮かぶちっぽけな島で、一縷の希望も見出せず、数え切れぬほどの命が奪われた。その中に、望んで散った命が一つでもあっただろうか。これまでの十五年間の人生の中で、戦争がどんなに理不尽で哀しいものかということ、そして平和な世の中のありがたみをこんなにも強く感じたのは初めてだった。戦後六十年、平和主義を掲げる日本は今、本当に平和な国と言えるだろうか。“命”の価値を正しく理解した国だと、胸を張れるだろうか。戦争の痛みを知らない私でも、“命”の大切さを伝えたい。理不尽な死に対する怒りと、当たり前に過ぎる平和な日々の大切さを忘れない人間になりたい。
 毎日、新聞の34面を埋め尽くす事件の数々。ひき逃げや放火、通り魔に加えて、ここ数年親子間や夫婦間、とりわけまだ年端もいかない子供達が絡む記事が多くなったように感じる。しかし、つい最近まで私にとってそれらは所詮、新聞上の出来事にしか過ぎなかった。どこか現実味のない殺人事件が急に我が身と重ね合わされるようになったのは、近所で起きたある事件がきっかけだった。いつもと変わらない朝、HRのため教室へ入ってきた担任の顔がややこわばっていた。私たちの学校から徒歩で20分もかからない場所で、その日の前の晩に大学生が全身10箇所を刺され死亡したというのだ。それも午後八時頃という当たり前の時間なのだから、現場から程近い地域に住む友達の怖がりようは尋常ではない。私も、ただただ信じられなかった。殺人とは、こんなに身近に起こりうるものなのか。心に衝撃が走った。犠牲者は、現場近くの大学に、夢を持って仙台から進学していたそうだ。わずか20歳の青年が、未来の夢とも幸福とも大好きな人とも、永遠に引き裂かれる。そんなことがあってよいのだろうか。人間を殺すことが絶対に許されない理由の一つを、私はここに見出した。ある人の命を奪うということは、そっくりそのままその人の夢を、関係性を奪うことにつながる。一人の人間の人生をめちゃくちゃにする権利など、誰一人持ってはいない。何でもなく通り過ぎる日々の中で、いつも自分に宿っている命が脅かされる可能性があるなんて、これまでの私には想像することすら困難で、考えてみれば当然のことに今やっと気付かされたのである。
 思わず背筋がぞくっとするような不安感。近年多発している許されざる犯罪には、いつでもそんな感情が付きまとう。全く関係のない個々の事件だとしても、今日の日本には何か理屈だけでは言い表せないひどく重要な問題がある。そしてそのために私たちは、常に漠然とした不安と隣り合わせにならなければいけなくなった。死というものはいつでも深い悲しみを伴う。特に自分にとって大切な人の死なら尚更である。しかし、それらのように否応なく対面しなければならない死は、得体の知れぬ不安なものではない。生と死は表裏一体にあり、本来私たちの生の影には死が息を潜めているからだ。では、この不安感は一体どこから発し、どうすれば解消できるのだろう。思うに、一番の原因は命を脅かされることへの怯えだ。野生動物はいつも狩られることへの緊張感を持っている。一方、驚異的な技術発展を遂げ自然を征服したかのように振舞う人類はいつの頃からか、老衰以外の死への緊張感をなくしてしまった。身近すぎる殺人や自殺を前に感じる不安は、おそらくここから発しているのではないか。つまり私たち人類が、命の暖かさや大切さを正しく理解しなければ永遠にかき消されぬものなのだと思う。
 現代の日本で、生きることは死ぬことよりも苦しいかもしれない。しかし、それでも私は声を張り上げて叫びたい。苦しさから、逃げないで。苦しみを背負わずに生きることなど誰にも出来はしない。それでも、たとえ死ぬことで苦しみから解放されるのだとしても、生きてほしい。過去に“もしも”を求めても無意味なら、今この瞬間、そして未来に“必ず”を追い求めたい。いつか必ず、命の重みを全ての人が感じられる日が来ますように。願わくは、私は真っ先にそんな人になりたい。

   講評   nara

 「理不尽な死」に怒らなければならない社会、それが私たちが生きる社会なのだと考えると、やりきれない思いでいっぱいになる。なぜ、そういう死が身近に起きるのか? 当たり前に生き、当たり前に命を全うすることが難しい現実に、私たちはもっと真剣に向き合わなければならないね。中2のちょうど今時分の長文課題に「慰霊祭のたびに……」というものがあった。私たちは、何かが起こったときに、責任追及・原因解明のための努力を怠り、スローガンと情緒だけで反省を繰り返してきた。不幸なことが繰り返されるだけでなく、より深刻化してしまうのは、そういうところも起因しているのだろうね。
 「一人の人間の人生をめちゃくちゃにする権利など、誰一人持ってはいない。」という意見は、心の底から搾り出された、切実な訴えだ。たとえ、国家であれ自分自身であれ、人の命を奪うことはできないということね。まとめの段落にある「苦しさから、逃げないで。……生きてほしい。」という部分には、自殺をイメージしているように思うけれど、どうだろう。「自分で自分の命を奪う」こともまた罪深きことなのだね。この「一人の人間の……」は、死刑制度などを考えるときにも核となる意見だな。
 「過去のもしも」と「未来の必ず」は、語の選び方のセンスを感じさせるね。こういうまとめが入ると、共感度が高くなる。考えると、「私」が今ここに生を受け、存在することは、たくさんの偶然の重なり合いだ。一つ一つは偶然であっても、それが重なったときに「必然」になる。その必然を大切にしなくてはならないのだね。

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 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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