低学年から学力の基礎を作る
幼長、小1、小2、小3の基礎学力をひとつの講座で学ぶ。
読書の習慣、国語算数の勉強、暗唱の学習、創造発表の練習をオンラインで。


昨日4215 今日779 合計60554
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

小学1・2年生   小学3・4年生   小学5・6年生   中学1・2・3年生   高校1・2・3年生

   “私”はだぁれ!?   ノンキィ

 現代はアイデンティティ不定の時代といわれている。かつて、大人になることは端的に個人が自分の属すべき共同体の一員としての資格を得ることを意味していたが、近代では子供から大人への変化期に教育という制度があてがわれた。それが、自分がどこで大人になったのかという自覚を曖昧なものにさせたのである。
 三月二十二日、私は中学校を卒業する。振り返れば、これでもかというくらい緊張して初めて正門をくぐった三年前、私はまだ小学校を卒業したばかり。それから瞬きをしている間に年月は過ぎ、同じように三年後、高校を卒業する私はもう目前に成人式を控える年齢となっている。自分が、大人になる。思わず笑ってしまうほどリアリティーのないその時が、それでも確実に迫ってくる。法律上大人と認められる年齢に達したとき、果して私はどのような姿勢でその事実と向き合うのだろうか。ニートやパラサイトシングルといった用語が太文字で現代社会の教科書に登場する近代、大人になるということはすなわち、自他共に認められた“己”を確立することであると思う。早く大人になりたいとも、私はもう大人だとも思わないが、せめて社会に出たとき一人前の大人として扱ってもらえるように、今の私を磨いていきたい。(主題)
 自分が何者なのか認識するためには、他者との関わりの中での自己を見出すことが第一の方法である。義務教育の過程を卒業した現代の若者が職につこうとしない理由として、職場での人間関係が耐えられないから、というものがよく取り上げられるそうだ。今日の日本では、子供を地域ぐるみで育てるという概念が極めて薄まり、子供は幼い頃から家族の中でしつけや道徳心を教えられる。他者と関わる機会が乏しいまま年齢上大人になった青年達が、社会に出たとたん様々な人と自由自在に人間関係を培っていけるはずがない。当然彼らは周りの人間との関わりを恐れ、そしてまた家族という天の岩戸に閉じこもってしまう。自己確立性というものは、誰かにとっての自分をはっきりと認識できてこそ成り立つ。従って、限られた場所で限られた人間と付き合い、成長してきた現代の青年が自分とは一体何者か、はっきりと自覚できていないのもうなずける話である。誰かにとっての私。また別の誰かと向き合う私。その幅が広くなれば、誰よりも掴みどころのない自分という人間の輪郭もおのずとくっきり鮮明に浮かんでくるはずである。(方法1)
 近代、子供から大人への階段をほぼ上り終える青年を、世間一般で“学生”という立場として扱う。英国で産業革命が起こる以前は、基本的な読み書きを習得した子供達はすぐに働き始めた。教育制度が今ほどきめ細かく分類されているはずもなく、社会で働くため必要最低限の知識だけで充分だと考えられた時代であった。偉大な芸術家、レオナルド・ダヴィンチやモーツァルトが、専門学校などに通ったわけがない。彼らは幼い頃から大人に混じり大人と同じことを習得することで自らの技巧を成熟させた。ところが工業が発達し、労働内容が高度なスキルを要求するようになった結果、社会で勤労する“大人”になるための猶予期間、モラトリアムとして教育が重視され、子供が大人になるまでの期間がそれだけ延びることになった。それはそのまま、「働かざるもの食うべからず」などどこ吹く風で、いつまでも親に依存する若者の増加を意味する。18歳成人や教育基本法改正が話題となる今、大人と子供の中間にいる“学生”という立場の位置づけを改めて考えてみる必要がある。(方法2)(伝記)
 もちろん、だからといって現代の若者を否定しているわけではない。しかし、“問題とはそこにあるものではなく、自分でつくるものだ”というように、現代の私たちが抱える問題は私たち自身が生んだものだ。成人式で暴動を起こす新成人の姿を見て、“大人”というレッテルに抵抗する彼らは、“大人”という立場の意味を勘違いしているのではないかと思う。年齢を重ねたからといって本物の大人になれるわけではない。 “傷つき易いままオトナになったっていいじゃないか”大好きな宇多田ヒカルの歌にはっとする。大人と子供、天と地ほどの差があるように思えるが、大人になったからといってなんでも完璧にこなせるわけでもないのかもしれない。それよりも自分がどのような人間なのか、自覚できた人はもうその時点で大人なのである。いつかは私にも、大人にならなければならないときがくる。そのとき、大人という立場を背負い自ら社会に乗り込んで行けるように、多くの人々と自己を認め合い、私と向き合ってゆきたい。(主題)(表現)

   講評   nara

 電話で話してくれた「第一段落を書きたくて……」という気持ちは、卒業を前にした今だからこそ、より強いのだろうね。「自分とは?」という根源的な問題は、普段いつも気にかけているわけではない。卒業や入学、結婚など、節目と言われるときに改めて思うことが多い。儀式を嫌う人は少なくないけれど、儀式によって自分と向き合う機会ができるとも考えられそうだね。
 第一方法は、他者との関係性の構築という、一番基本とも言える方法だね。人付き合いは確かに面倒なこともある。しかし、その面倒さが人としての彩りをより豊かにしていくのだろうね。ごく一部に限定された人間関係の中で、そこだけに依存していくと、その構築物はゆがみいびつなままで、一定方向からの負荷を受けやすくなってしまう可能性が高いのだろうな。
 第二方法はよくまとめてある。ここは難しい考え方だけれど、伝記の引用が効果的で、説得力もある。教育を受ける権利・受けさせる義務は、素晴らしい理念から生まれたものだと思いたい。しかし、教育が原因になった社会問題も確かに存在するということだね。
 自分が何者であるかを自覚する、その自覚を促すための儀式が、元服だったり成人式だったりするのだろう。けれど、今や「大人になったことを祝う日」というただのお祭りになっているのだね。大人に抵抗しているのに、成人式に「大人になった」という立場で参加している……それは行動としては外への発散になっているけれど、他者と向き合えずに内にこもっているのと、根本的には同じなのかもしれないな。 

毎月の学年別「森リン大賞」作品集森リンの丘 
 自動採点ソフト「森リン」で上位になった作文を掲載しています。
 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

作文教室受講案内   無料体験学習   作文講師資格 
Online作文教室 言葉の森  「特定商取引に関する法律」に基づく表示」  「プライバシーポリシー」 
お電話によるお問合せは、0120-22-3987(平日9:00-19:30)