国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

小学1・2年生   小学3・4年生   小学5・6年生   中学1・2・3年生   高校1・2・3年生

   高尚なともだち   ノンキィ

 芸術を享受する主体と見られる対象との間にもともと隔たりはなく、居住まいを正して作品に集中するという聴衆の態度は、作品の鑑賞という一つの思想の下に制度化されたものに過ぎない。
 厳かな管弦の響きにのって、“美しく青きドナウ”の演奏が始まる。私がまだ幼い頃、父と姉と共にニューイヤーコンサートを聴きに行ったときの思い出。しん、と静まり返った息の詰まるようなホールの雰囲気に、芸術の価値などまだ何も分からない私はとても退屈していた。あれから約10年、今でこそクラシック音楽のすばらしさを少しだけ理解できるようになったものの、管弦楽というとやはりどうも堅苦しく敷居が高いというイメージが拭いきれない。いつの頃からだろう。十八世紀には流行の最先端のひとつであったろう音楽がこんなにも遠い存在になってしまったのは。芸術という名の皿に乗せられ、神棚に祭り上げられるようになったのは。長い時を越えてなお多くの人々を魅了するものは、同時に近寄りがたい雰囲気を全身にまとい、どんどん雲の上へと昇ってゆく。それともそう感じてしまうのは、私自身芸術というものを限定された視点からしか見ようとしないからなのか。どちらにせよ、素晴らしい価値のあるものなのだから、私なりの向き合い方を見つけて高尚な芸術を思い切り楽しめるようになりたい。(主題)
 物事を楽しむための一つ目のステップは、それを“勉強”だとみなさないことだ。例えば源氏物語。輝くばかりに美しい光源氏の華やかな恋模様をつづった、中高生の古典の教科書の常連だが、考えてみると一千年の昔、これは宮廷内のベストセラー連載小説としてもてはやされていたはずだ。紫式部は、現代の江國香織や吉本ばななといったところか。とにかく、当時にしてみれば軽い恋愛小説であり、それが千年後、教材として欠かせないものになっているなんて思いもしなかったに違いない。数学だってそうである。今でこそ全国の学生を苦しめる鬼と化しているが、ピタゴラスやパスカルにとっては楽しくて仕方なかったのだろう。個人の好き嫌いや得意不得意を無視し、大人から“強制される”ものがどうして楽しみになりえるだろうか。sinθやtanθを目の前に、“こんなもん、将来何の役に立つんだぁ!!”と、思いたくなるのも無理はない(笑。元来人々の楽しみの一つだったのだから、私たちにも同じようにそれを楽しむことは可能である。まずは、テスト勉強のためという考えを捨て、自分の好奇心の赴く方向へ進んでいけるような心を持とう。その先にはきっと、芸術の中心へとつながる扉があるだろうから。(方法1)
 扉を開けると、そこには行く手にも分かれた道が伸びているはずだ。芸術というものは、人によってその捉え方がまるで違う。裏返せば、そんないくつにも変化する顔を持っているからこそ、より多くの人々の心を掴みえるのだろう。どの道を選ぶのかは一人一人異なるが、そこで少し欲を出し、一本の道をちょっとだけ進んで、さらに引き返してまた別の道をも探検してみる、というのもおもしろいと思う。そこでは、さっきの道とはまた違う、新たな発見があるかもしれない。つまり、ある対象に触れるときに、その対象との向き合い方を一つに絞らないということだ。前述したような古典文学ならば、国語の授業で品詞分解をして口語訳、の他に漫画を読んでみたり時代劇を見てみたり。エンターテイメントで楽しむ方法もあれば、骨となる時代背景を知るのもおもしろいかもしれない。一つの視点に限らずに、自分の好きな分野から切り込んでみれば、いつの間にか芸術がすぐ身近に感じられるようになる。天才エジソンがまだ小さい頃、小学校で習った足し算に納得できず、周囲の大人を閉口させたという逸話がある。彼は単純な足し算の、他の人が気付かないような顔を見つけたのだろう。芸術の楽しみ方は一人一通り、なんていうけちな決まりはないのだから、幾本もの道をいったり来たり、節操のない進み方をしても一向に構わないのである。(方法2)(伝記)
 時には、そんなつまみ食いのような真似は邪道だ、と怒られてしまうこともあるかもしれない。芸術に生涯をかけ、それを追求し続ける人にとっては、クラシック音楽や古典はそんなに軽く扱ってよいはずもない。しかし、“人はその制服どおりの人間になる”ように、一つに限ったアプローチは、その対象に対して良くも悪くも偏見を生んでしまう。それがさらに芸術作品の敷居を高くしてしまうのではないか。せっかく素晴らしい価値のあるものと向き合うのだから、いつもより少し軽い気持ちで可能な限りその魅力を自分の心に吸収できるような心の余裕だけは持っていたい。芸術を気楽に楽しむ、そんなことができるようになったなら、目に映るものはもっと鮮やかになるに違いない。さあ、どの道を行こうか。(主題)(名言)(反対意見)

   講評   nara

 クラッシック・古典と言われるものの共通項として、「隔たり」があるのかもしれないね。残念ながら、純文学でその内容が高く評価されている作品であっても、ここ10年単位の発表作品は古典たりえない。年月を経るという試練を越えなければならない。年月という隔たりがある以上、そこに距離感が生まれるのは当然とも言える。その距離感を踏まえた上で、そのときどきでの楽しみ方、その人なりの楽しみ方があっていいはずだね。
 「勉強とは勉め・強いることだ」という長文が以前あったのは覚えているかなぁ。物事をやり始めるキッカケの一つとして、勉強があるのは否定しない。だけれども、キッカケ段階での強制力が余りにも強すぎて、そこから離れようという気持ちの方が先に立ってしまうかもね。専門家と呼ばれる人もまた「隔たり」を生み出しているというわけだ。
 第二方法もいいね。長文要約の「一つの……でしかない」という主張を踏まえた意見だ。強制によって固定されてしまうと、これもまた「そこから逃れよう」という気持ちを生み出す。「幾本もの道」「節操ない」というのは、換言すれば「柔軟」ということだものね。
 人により物事の捉え方はさまざまだ。それなのに、こと芸術に関しては「これが正道である」と声高に訴える人が多い。年月を経て引き継がれたものは純化していて、それを守るという必要性も確かにある。ただし、守るということが全ての人に課せられているわけではない。ここがポイントになりそうだね。

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 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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