国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   「曖昧な」日本語   かつさ

 「言葉」は、それを使う人々の世界観を構成する一つの重要な要素である。例えば日本人の主食である米には、コシヒカリ、ひとめぼれ、などの品種だけでなく、米そのものについても、加工過程によって呼び名がある。しかし、それに対して英語で米を表すのはriceしかない。「言葉」が示す概念は、それを使う地域の人々の生活と深く結びつき、その特徴を顕著に表しているのである。では、日本語が現す特徴は何なのかと言うと、それは「曖昧さ」だと私は思う。擬音語や擬態語など、日本語には、それを具体的に別の言葉で表現するのが難しい言葉が多いからだ。この「曖昧」な日本語によって、特徴的な文化が築かれてきたが、日本語はある種の悪い影響をも私たちに与えていると思う。
 その理由として第一に、日本語は、その「曖昧さ」を持っているがために、それを使う私たちが自分の感情を何と無く濁すような人間性を形成してしまっているように思えるからだ。「お茶を濁す」言動、とりあえず周りの空気を読んだ言動をするのが良しとされるのである。純粋に日本で生まれ育った日本人は、この考え方が持つ問題性に気付かないことが多い。しかし、極端に言えば、これは自分に嘘をついてでも、相手を持ち上げ、喜ばせるのが良い、と言っているようなものである。果たしてそれは本当の礼儀正しさなのだろうか。日本語が持つ奥ゆかしさばかりに気を取られず、はっきりと自分の意見を主張する、という姿勢が、今の日本人には足りない気がする。
 第二に、日本語の持つ「曖昧さ」は、人間同士のつながりを脆弱にしかねないからだ。一見して、この意見は矛盾しているように思えるかもしれない。「曖昧さ」は会話を円滑にするためにあるようなものだからだ。しかし、日本人は、お互い本音を出さないことが分かっているため、会話において常識となった嘘が氾濫する。その結果、人と接するごとに嘘をつき、つかれるという人間関係の一切が面倒になってしまうのである。実際、「自分に近所付き合いはいらない」と答えた人は全体の20%もいた。単純計算で約2600万人もの人が、近所づきあいが不要だと思っていることになる。人間一人で生きていくのは寂しいはずなのに、いくらなんでもこの結果は異常ではないか。
 日本語は、他の言語に比べて、とりわけそれを使う人々にベールをまといたがる言語である。そして、その厚いベールのお陰で、本当は見たくなかった真実を見なくて済み、自分自身の見せたくない部分も良く隠せ、非常に使い勝手のいいものになる時もある。しかし、あまりにもそのベールを厚く過ぎると、それが持つ重みを自分で耐え切れなくなったり、いざ自分を外に向かって解放したいようなときも、閉じ込められて出れなくなってしまうかも知れない。奥ゆかしさを守るのも大事だが、それは外に向かって、そして外の世界とかかわりながら生きていく人間の本質とは異なる物であろう。そういう点については、もしかしたら日本語は「人間らしさ」を隠す言語なのかもしれない。

   講評   nane


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