国語読解力は、あらゆる学力の基礎。問題集読書の復読と、読解検定の自主解説で確実に力がつく
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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   糸になれ   ayou

近年の子供は、他者への無関心が顕著になってきている。そしてそれが大人に対しての根底的な不信の感情となって現れている。言葉という道具にも同様の事情がある。「私はこう思う」という一人称の語りが喪失し、「あいつがこう言っている」というゴシップが日常生活を構築している。
 前述のように、言葉は道具である。人間は、互いの関係を構築するために、そのほかにも多くの道具を使っている。また新しく道具を開発したりする。 
 近年はその他の道具を使わなくてもそれ一つだけであらゆることが可能になる道具が開発されてきた。よって道具を使いこなせない人間が現れた。パソコンや携帯電話に依存してノコギリや算盤が使えない人がその例だ。 理由は間違いなく道具の練習不足である。だから、もっと道具に触れて、練習するべきである。
 その方法として、学校などで、道具に触れさせるという方法がある。
 今自分は高校一年生だが、二年生になると、「情報」という授業がある。パソコンの授業だ。この授業の一部を、中学校の「技術」のように、道具に触れるようにすればよいと思う。
 これは別に、自分が電子機器を扱うのが苦手だからというわけではない(笑)。道具に触れることで得られる物、そしてどうしてその道具が必要になったなどを学ぶ機会が出来る。そこで道具に触れれば、興味を持って道具の練習をすることが出来るはずである。
 また、人間の意識の問題で言えば、道具に対して受け身にならずにどんどんと使ってみようとするという方法もある。道具を使おうと思って接すると、おのずと「上手く使いたい」という心理が作用する。そこでもっと練習する。するとどんどんと積極的に「よし、道具を使おう」と思えてくる。話し言葉で言う『ハマる』状態になるのである。この状態を作り出すには、人間の方から道具に突っかかっていくような姿勢が必要なのである。
 ルネサンスの三大発明と言えば、「活版印刷機」・「火薬」・「羅針盤」である。このうち、「羅針盤」という道具に目を向けてみることにする。これが発明されたおかげで、航海は非常に便利になった。当時の冒険家達は、争ってこの道具に突っかかり、その道具の可能性を探ろうとした。結果が「北アメリカ大陸の発見」というものとなったのは言うまでもない。(歴史実例)
 これこそ、人間が道具に突っかかっていったよい例では無かろうか。つまり、道具は『使ってナンボ』なのである。しかも人間が積極的に使うことで大きな物を人間にもたらすのだ。
 確かに、道具を積極的に使うということは道具に依存することではないかという意見もある。実際、電子メールという情報伝達の道具を皆が積極的に使ってしまったが為に、メール依存という実害があるではないかという見方が出来る。
 しかし、道具は『道』そのものの『具』材ではなく、『道』を極めるための『具』材なのだ。主導権はその道にあるのではなく、道を極める人間にある。つまり、人間が道具にどの様に対していくかという問題なのだ。
 人間が使っていくことによって、道具は大きな効果を生む。これは、道具という不動の糸に人間という糸が絡む状態とは考えられないだろうか。この二つの糸の絡みはいろいろな面積を作れる。人間の糸が伸縮自在だからだ。このいろいろな面積は、すなわち道具の大きな効果となっているのだ。方向性の拡大である。
 実は、これは人間対人間の場合でも言えることだ。よく「あの人と相対しにくい」と言う状態を『絡みづらい』と表現するが、まさしくそれである。お互いが二本の糸のように絡むことで関係性が作られている。
 しかし、糸を絡めないと、二本の糸は平行線のままである。冷たい関係性になってしまう。そうすると方向性は一向に拡大しない。ところが、これを「ドライな関係」として、近年はもてはやす傾向がある。「あまり絡むなよ」という意識が現れている。道具に積極的に絡む人は多いのに、である。
 ここに、「人間の機械化」というものが構築される。人間同士があまりに絡まないために、糸が動かなくなってしまったのだ。最初は伸縮自在だったのに、自分から絡もうとしないせいで受け身の糸になってしまい、不動の糸に固まってしまう。もはや棒である。
 だから、もっと自発的に巻き付いていくべきなのだ。「他人と上手く絡めない・道具が言うことを聞いてくれない」のは、自分の糸が受け身の棒だからだ。もっと柔軟な糸になって巻き付くと、主体的な、またごく自然な関係性が構築できるのである。

   講評   nara

 この長文については、結構時間を取って話したので、書き出しさえすればよくまとまるであろうことは、わかっていたよ。その書き出すまでが大変だったけれどね。お疲れ様でした。「道具」という比喩が自分の中で消化できれば、方法論も浮かびやすかったはず。まず、何の道具なのか知り、その使い方を学ぶ。実際に自分で使う経験を重ね、よりよい使い方を身につける。そして、自分に最も合うものを探し、場所・場面・相手によって使い分けをする。これは道具全般に言えることだね。もちろん、道具を「言葉」に置き換えることもできる。現代社会において、どの部分が欠如しているのか。ここを考えていく必要もありそうだね。
 自作名言「道具は『道』そのものの『具』材ではなく……」がうまい。ここから「糸」につなげていったところは、さすがだなぁ。そして、もっとうまいのは、糸という比喩が道具にだけとどまらず、人間に対しても使われているところ。対象者も道具であり、また自身も道具であると考えると、人同士の付き合いもまたこの講評の第一段落にある「道具」についてのコメントで、説明できるわけだ。考えてみれば、言葉は人間そのものなのだから、「言葉イコール人間イコール道具」という図式は、何の不思議もないね。
 「道具という不動の糸」と、人間について述べた「不動の糸に固まってしまう。もはや棒である。」というところ。ここで言う二つの「不動の糸」は、少し意味合いが異なるように思うけれど、どうだろう。異なるとしたら、人間が生み出した道具と、人間そのものという点で違いが出るのかな。ここが解決できれば、なおよろしい。

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