対話と個別指導のあるオンライン少人数クラスの作文教室
小1から作文力を上達させれば、これからの入試は有利になる。
志望校別の対応ができる受験作文。作文の専科教育で40年の実績。

昨日2126 今日584 合計7582
作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

小学1・2年生   小学3・4年生   小学5・6年生   中学1・2・3年生   高校1・2・3年生

   感性論   クラシック

 かつてまだ、科学で自然現象を立証できず、ただ<ふしぎ>として抽象的に受け入れていた時代、人々はこの不思議の答えを知りたいがために、納得できる答えを自ら用意した。たとえば星座。空にガラス細工のように散りばめられた光る結晶を毎夜眺めていた人々は、その光の塊の正体を知りたくなった。しかしその段階での人々にとって<星>の正体を知る手立ては無い。そこに至り<神話>が生まれた。星を結び形を作りそれに物語りを結びつけることで<ふしぎ>を解決したのである。無論神話は空の星だけに至らず、月の美しさ、太陽の力強さ、火星の儚さ、花の香りあるいは色、海の恐ろしさ、<死>ということ、人はどこから来たのか、全ての疑問に各々の物語を付与することで納得し続けたのだ。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えるまで人々は天動説を信じ、大地は像亀の甲羅の上に在ると解釈していたと云われているのだから、間違い無いだろう。もっとも、この自己的解釈には当然あらが有りそれが露呈する可能性があった。一度解釈に食い違いが出れば、人々はもう一度都合の良いように解釈し直さなければならないのだ。これに対し科学的解釈は正確であり、なにより事実を立証しているために無理が無いのだ。当然、人々はこの科学的解釈を信じ、神話をバカバカしいと鼻でさえ笑うようになったのだ。科学の発展により立ち消えてしまった自己的解釈である、しかし現在でもその片鱗は幼い子供の中に残っている。子供は何かふしぎなことを見つけると、それを親に尋ねて知識を吸収するが、もしそれが何らかの形で叶わなかった場合、納得のいくような物語を結び付け自己的解釈をするのである。実はこの自己的解釈(特に幼少の)は非常に大切なもので後の人生の人生観に関わってくるのだ。現在日本は学歴社会であり、人間の価値はいくら勉学より得た知識を持っているかにより判断されていると言っても過言ではない。こんな社会であるから当然幼い頃より英才教育を受けていた子供もいる、テレビで小学生3年生で既に微分積分をやっている天才少年を特集した番組を見たときは正直驚きを隠せなかった。しばらく特集を見ていると、今度はその少年のインタビューに移ったのだが、私はそれにふと奇妙な違和感を感じた。インタビューの打合せ用に既に答えを用意し暗記していたのだろうが、どうもその少年から感受性を受け取ることができなかった。天才と言っても小学生であるから子供特有のあどけない答えが主であったし(小学生3年生としてはかなりしっかりしていたが)自分の力を誇示したいという、これもやはり少年特有のリーダーになりたいと思うそれと同一の感情も読み取れたのだが、他の番組などの子供達から受けたあどけなさを全く持っているように見えなかったのだ。私は子供の頃から極度の空想癖を持っていて良く空想の世界に浸り遊んでいた。私は自分を空想に当てはめ、あるいは絵本のように物語を傍観するのが大好きだったので熊のように落ち着き無く歩いてはそのつど視界に入ったアイロンを怪物にしたてたり、押入れを悪の秘密基地にしたてたりしてよく遊んでいたのを覚えている。実はこの年になってもまだ空想癖は消えておらず(さすがにもうゴッコ遊びという年ではないが)暇なときは物語を頭の中で考え、それが気に入れば文章におこしたりもしているのだが、そういった自分の子供時代(もっとも私の体験は偏っていたが、空想の中で物語を作ったことは誰でも一度はあるだろう)と全く正反対であり、自分の中でリアリストたる自己を確立しているようなそんな奇妙な感覚に襲われたのである。感受性は幼少の頃より養われその経験によって後の人生は揺さぶられる。自己的解釈を子供にさえ良しとしない風潮に変化している現代社会はこれを重んじるべきでは無かろうか。
 その方法を挙げてみよう。ずばり言ってしまえば、固定観念に囚われないことが何より先決である。もし仮に皆が皆固定観念に囚われ、子供に自己的解釈は必要ないと切り捨ててしまったと仮定しよう。何度も親に変な空想と結びつけるのは止めて事実を見ろと叱られ続けると(あるいは親が事実と論理でがちがちに固められた答えしか返さなければ)当然子供は自己的解釈などしなくなり、その子供が作った社会はリアリストしか居ないまさしく無駄の無いものとなるだろう。だがどうだろうか? 先人の格言にこうある「聖人しか居ない世の中があれば我々はそこを地獄と呼ばざるを得ないだろう」そんな社会を生きていく子供達、あるいは大人達は、何を糧にして生きていけば良いのだろうか?
 確かに科学的な解釈、事実は人の進歩にとって重要なものであり、各々が知識を得成長することに必要不可欠な存在である。しかし、ただそこにある事実の解釈だけではなく自己的解釈の積み重ねなどにより磨かれる感受性もまた重要なものなのだ。それは言わば人生を楽しむための素材であり、これを持たない人間はただの抜け殻に過ぎないのであろうから。

   講評   jun


毎月の学年別「森リン大賞」作品集森リンの丘 
 自動採点ソフト「森リン」で上位になった作文を掲載しています。
 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

作文教室受講案内   無料体験学習   作文講師資格 
Online作文教室 言葉の森  「特定商取引に関する法律」に基づく表示」  「プライバシーポリシー」 
お電話によるお問合せは、0120-22-3987(平日9:00-19:30)