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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   「夏の庭」を読んで   うさぴょん

「そこを発見するんだよ」
「え」
「おじいさんが死ぬ。そこを」
こんな会話から三人の受験生がおじいさんを見張る夏休みが始まった。
 主人公(木山)とその友達河辺と山下は、「死ぬ」ということを見るため、もうじき死ぬかも知れない一人暮らしの老人を見張ることにした。ある日、見張りのじゃまになるくさいゴミを出そうとして、おじいさんの家に入って、おじいさんに見つかってしまう。そこから、おじいさんとの交流が始まる。
 「食べてよ」ぼくは、ぶどうの実をおじいさんに差し出した。「ねえ、食べてよったら」私はこの場面に感動した。サッカーの合宿から帰ってきた三人が、おじいさんが死んでいるのを見た場面である。いつの間にか。自然に。そんなに早く死んでしまったのに違和感がない。もっと話すことが、もっとやることがあったのにと三人はどれだけ悲しんだだろう。もし、それが私だったら。もし、私の身近な人が死んでしまったら。きっと、まるで、狂ったかのように泣くのかもしれない。いや、もしかしたら、驚くほど冷静かも知れない。どちらにせよ悲しいのに変わりはないと思う。
 私には身の回りの人を亡くしたという経験がないので父に聞いてみた。
 「悲しいなんてもんじゃなかったよ。」
少しさびしそうな笑みを浮かべながら、ぽつんと父は言った。父が父—私の祖父にあたる人−を亡くしたのは、祖父が五十八歳のときだった。私には絶対会えない人。父は、その人のお墓参りに、彼岸で二回、お盆、命日、正月と欠かさずに行く。私は毎回、何のために行くのかという疑問があった。その疑問が解かれた。父は言った。
「孫の元気そうな顔をみせてやれば、喜ぶんじゃないかって思うから、お前を墓参りに連れて行くんだ。」
ああ、そうだったのか、と納得し、なぜそんなことも気づかずに面倒くさがっていたのかと後悔する気持ちが広がった。死というものを深く身近に感じた。
 この物語を通して私は、死について色々なことを考えた。そして、死を身近に感じた。また、死という悲しみを乗り越えて何か得るものがあると思った。
 人間にとって死とは、ただ悲しいだけでなく、それを乗り越えて何かをつかむための試練である。

   講評   nara

 「見張る」という言葉からどんなことを連想するかな? 似たような言葉に「観察する」などがあるでしょ。そこからイメージするのは、感情があまり伴わず、現象の変化を見続けるという感じかな。観察の対象であれば、そこには気持ちが寄り添わなくてもいいものね。つまり、少年たちにとって、死も、老人も、最初の段階では感情が伴う対象ではなかったということだ。では、少年を非難できるかというと、そうも言えない。こういう感情は自然と生まれるのではなく、育んでいくものだからだね。だから、うさぴょんさんが、身近な人の死に遭遇した自分を想像できないとしても、当たり前のことで、多少なりとも見張りを始めた少年達と重なるところがあるとも言えるかもね。
 お父さんに聞いた話は、いい題材だ。お父さんの言葉をもう一度よく考えてごらん。おじいちゃんは死んでいるのだよね。「孫の顔を見せる」ということは、おじいちゃんには見えるとお父さんは思っているわけだ。生物学的には「死」を迎えていても、心の中では生きている・確かな存在として感じ取っている、それが「身近な人の死」ではないかと考えることができるね。ここで、物語に再度戻ってみよう。「ねえ食べてよ。」の言葉をどう解釈するか。もちろん死んでしまって食べることが現実的にはできるわけがないことも、少年たちにはわかっているはずだ。お父さんの言葉と重ねて考えてごらん。
 もう少しがんばれるのであれば、まとめの「乗り越えてつかむ何か」が何なのか、ここをうさぴょんさんの言葉でまとめられるといいね。

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