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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   共同体としての解決   ルフィ

 隣人間で揉め事を起こした際、まず初めにあなたが行なうであろう事は、当事者同士による話し合いであろう。そして、どうにもならなくなってきたときにはきっと弁護士を連れてくる。しかしこの、「弁護士を連れてくる」ことには、確かに白黒つける点では優れているのだが、それでもあまりにデメリットが多すぎる。最も大きなものを挙げれば、裁判で敗北した方は一生悪者の烙印を押されたまま生きていかなくてはならず、元通りの関係を築けなくなることだ。そこで、私は同じ共同体内で問題解決を行なうべきだと思う。
 そこで、そのための方法として挙げられるのが、普段から隣人間でコミュニケーションを深めておき、揉め事を起こした際よく話し合えるような人間関係延いては環境を形成しておくことである。つまり、ある脚本家のMさんのように、結婚時に「人付き合いを全くしない家庭を作りたいです」と言わないようにすることである(笑)と、脱線をしているうちによい例を思い出したので、以下に書いていく。
 私は今、高校に通っているのだが、そこにはまぁ実に様々な人がいるのである。ちょっと思いつくだけで、いかにも音楽家の卵といった芸術系の人、まさに「歩く辞書」の名に相応しい人、一部に変人と言われたことがある学級委員(私である、本人は変人と言う部分に関しては否定)などなど・・・。そのなかには、どの学校にもそうだと思うのだが、人との会話が苦手で、周囲になかなか馴染めない人もいる。私も一応、(変人と呼ばれようが)学級委員としての立場から気にはしているのだが、もしその子と周りの子がトラブルを起こしたならば、コミュニケーションを図ってない故、その子のことをよく知らないからちょっと怖いものがある。つまり、行動が全く読めないのである。泣き出して教室を飛び出すか、はたまた怒り心頭となり机(椅子でも可)を投げ飛ばすか・・・。これを隣人間の事件に例えれば、会話不足が生み出す弊害の一例となるであろう。
 話は続くが、普段からみんながろくに相手をしない、というケースもある。これは、仮にその人をAさんと置くならば、Aさんが普段から傍若無人な言動をしているがために、皆彼と話をしても適当に流すだけで避けているという場合のことだ。端的な言い方をすれば、Aさんが自己中心的なために嫌われ、ういているということになろうか。これもやはりうちのクラス内にいて、私は毎日そのことで頭がいっぱいになり眠れない夜が続いている(嘘だ)そこで、これもまた隣人間での出来事に置き換えてみよう。頼みもしないのに、いかがわしい健康食品の試供品を薦めてくる人。マルチ商法に引っかかり、しつこく加入を迫ってくる人。いずれにせよ、独りよがりの親切を押し付けている。この場合は、もはやコミュニケーション云々の問題ではなく、人間性に焦点が絞られるのかもしれないが、結局そういった人を変えるためには、話をして気づかせるしか方法がないのである
 さて、揉め事を共同体内解決するためには、もう一つ重要な方法がある。というより、むしろこれは国として解決すべき問題なのだが、それは社会的立場によって無意識に生まれる、差別感の撤廃ということだ。つまり、外国人などに対して差別(あるいは区別)をしないということである。具体的に話そうか。日本というのは、太平洋戦争終了まで明らかに階級制を引いていた国である。と、格好つけてみたが私は日本史が大の苦手なので確信はない(笑)まぁもう少し気取らせてもらうと、その階級制の中でも特に今でも問題となっているものがある。それは、「えた」「ひにん」、あるいは同和に関するものだ。軽く説明をつけておくと、江戸時代、つまり農民が虐げられていたその時代だが、将軍か藩主かが、次のように心配した。「このままでは農民達のストレスがたまり、一揆として爆発するのではないか」そこで彼らは、農民以下の位として士農工商にも載らない「えた」「ひにん」を生み出した。そして彼らは終戦後まで人間としてすら扱ってもらえず、そしてまだ「慣習」という言葉の元目に見えない差別が行なわれている地域もあるようだ。・・・だったかなぁ(薄い仮面がはがれた瞬間)大体ストレスなんて言葉江戸時代にはない・・・など些細なことはおいておき、とにかく私が言いたいのは、この古くからある差別意識が、現代にもまだ色濃く残っている、という点である。そのような意識が完全になくならない限り、もし彼らが隣人としてやってきた折には、とてもじゃないが円滑なコミュニケーションなど図れるわけがない。
 と、今まで好き勝手書いてきたわけだが、それでも私は法律で裁き、うまく解決できるのならばその方が言いと思う。法によって裁かれたほうが、皆が納得できる場合が多いからだ。しかし私は、同時にそれは何だか寂しい気もする。なぜなら、そのような欧米的な権力による完全統治を行なわなくとも、自主的に共同体の中だけでうまくやっていけるだけの器量をかつて日本人が持っていたからだ。それは、よく「日本的感覚」などと表記され、槍玉にあがることも多いのだが私は好きである。「揉め事は、権力によって回避されるだけのものではなく、人が生み出したものである限り考えることによって解決も生まれるものである」からだ。人は、生きている限り何らかのトラブルの渦中に巻き込まれていくものだ。それを法を用いて突っぱねるか、それとも話し合いによって納得のいく解決を見つけるべきか、私達はもう一度考え直さねばならないだろう。

   講評   kira

 ルフィくん、こんにちは。試験明けの気分はすがすがしいものですね。私は試験明けは倒れていました。一夜漬けが過ぎて・・・あははは。
 さて、すばらしい長編力作になりましたね。この問題はつねに胸のうちにあったのですね。
 日本はずっと引け目を感じてきました。曖昧な日本、論理的でない日本、なれあい社会、談合? みんな恥ずべきものとして放逐されています。しかし、この「全員一致のなかよし手法」は実は画期的なことかもしれないんだね。多数決のもつ落とし穴にはまって溺れかけた民主主義の救世主かもしれない。
 「話せばわかる」というのはまやかしだと言ったのが養老さんでしたね。最も気楽な原理主義におちた人にはもう話しても通じない。でも、今のふつうの私たちならわかりあえる。
 クラス委員でたいへん骨折りをしているんだね。変人と?呼ばれつつ苦労する姿は今の首相と重なるイメージだなあ。
 妙な話ですが、今年の桜が見事だからあなたと意見をあわせましょうという世界が、平和なのではないでしょうか。
 もうひとつは差別の撤廃。日本的な差別もあるんだね。しかも表面化しないだけに根強い。解放を訴える人たちは時として刃を尖らせすぎる。
 全員一位など、まやかしだと思う人も居ます。でもその積極的な歩よりはほかの国には見られないものです。ぜひ「話せばわかる」世の中を続けていきたいね。
 最終段落「できるのならばその方が言いと思う」→「できるのならばその方が良い」
         

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