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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   冗語性って何!?   ノンキィ

 島国言語の日本語は、言葉の中に含まれる必要な蛇足である冗語性が少ない。つまり日本語は、普通は家族間で行われるような言語活動が社会全体で行われているのだ。日本人が、冗語性の高いヨーロッパの言語をなんとなく理屈っぽいと感じるのはこの冗語性と無関係ではない。
 あらゆる言語活動において、その時々に変化する言葉の冗語性。これは、言葉の中に含まれている「必要な蛇足」である。そしてこの冗語性が高いほどそれは説明くさくなり、極端に少ない例がいわゆる家族間の会話なのだ。例えば家族で食事をしているとき、「お茶」という一言を言うだけで相手がお茶をとってくれたりした経験はないだろうか。また、「しょうゆ」といわれただけで相手がしょうゆを必要としていることがわかったりすることはないだろうか。私にとって、こんな会話は日常茶飯事といってもよいくらいだ。(体験実例)これらの言葉には、無駄な蛇足は全くない。つまり、冗語性が極めて低いのだ。
 さて、冗語性の説明はこれくらいにして、まずは冗語性の低い言語活動が好まれて行われている島国言語に焦点を当ててみよう。(複数の意見一)
 私は素直に、冗語性の少ない日本語が好きだ。それは日本語という言語に慣れているからかもしれない。あるいはほかの言語といえば英語をほんの少し知っている程度なので、比べる対象がないというのも事実ではある。しかし、それでも私は日本語が好きなのだ。日本的な言葉のよさは、この冗語性の少なさにあると思う。こちらが何か言えば、相手からはそれに見合った答えがやはり一言程度で返ってくる。この味わい深い短い会話。これこそが日本人の言語活動の真髄なのではないかと思う。
 次に、冗語性の高い大陸性言語について考えてみよう。
大陸性言語、つまりヨーロッパ諸国の言語に、冗語性が高いのはなぜであろうか。昔から土地をめぐっての争いや貿易を通して、隣接するさまざまな国と言語活動を行ってきたそれらの国では、日本語のような風情ではなく、いかにして相手を言葉で打ち負かすか、また、自分の意見を納得させるかが最重要とされた。そしてそれらの国の言語に共通する冗語性の高さは、古い歴史の中ではぐくまれてきた証なのではないか。私はそう考える。そしてこのような歴史の上ではぐくまれてきた言語は、相手に自分の意思や意見を明確に伝えるうえで非常に強力な力を発揮するのだ。 
 以上、島国言語と大陸言語について述べてきたが、もちろんこれらにも欠点はある。島国言語のそれは、あまりにも冗語性が低い故に、相手に誤解されたり、違う意味にとられたりする危険があることだ。それを日本語特有の風流だと受け取ってもらっているうちはいいが、一歩間違うと全く違う意味に捉えられたりするかもしれないのだ。つまり、島国言語の欠点はそれ特有の曖昧さにあるといってよい。また、大陸性の言語の短所はこれまたあまりに高い冗語性にあると思う。そしてこの冗語性の高さを日本人はつい「くどい」という言葉を盾に受け入れようとしないのだ。現に私も、去年から学校で習い始めた英語に、はじめはよく戸惑っていた。(体験実例)たとえば、「Do you have any pets?」という質問をしたとき(あるいはされたとき)、その返答の仕方は日本語のように淡白にはいかないのだ。「Yes/No」ではいけない。「No, I’m not. I don’t have any pets.」といわなければ、あまり相手によい印象を与えないそうだ。けれども、これらの受け答えの仕方は私たちにとっては説明くさいものだと映ってしまう。それは、私たちが日本語という島国言語に慣れてしまっているためではないだろうか。
 私たち日本人は、生まれたときから一生を終えるまで、いちばんよく日本語を使う。もちろん一部例外もあるだろう。しかし、一般の日本人にとっていちばん身近な言語は間違いなく日本語だといっても過言ではないはずだ。だからこそ私たちは、日本語以外の言語をなかなか受け入れられないのかもしれない。日本人に限らず、人間は自分が慣れ親しんできた事柄を過大評価し、ほかの事を受け入れにくいきらいがあると思うのだ。だが、その状態で踏みとどまっていてはいつまでたっても自分を取り巻く自分の世界は広がらない。
 「悪いことそのものがあるのではない。時と場合によって悪いことがあるのである。」という名言がある。言語もこれに当てはまると思う。大陸言語と島国言語、つまり冗語性が高いものと冗語性が低いもの。どちらかが悪くてどちらかがよいというものではない。ただ使い方を少し間違えると、相手に不快感を与えてしまうもととなることを了解しておくべきである。そうやって私たちは冗語性の低い日本語の長所はもちろん、欠点を受け入れ、同時に冗語性の高い言語活動の長所を充分に理解した上で、それらを適切に使い分けてゆくべきなのではないかと思う。(総合化の主題)

   講評   nara

 日本人は「言わなくてもわかる」「以心伝心」「魚心あれば水心あり」など、言葉がなくてもお互いの心情が分かり合えるのをよしとすることが多いね。そもそも、共通認識の中で生活しているのだから、わかっていて当たり前という感覚があるからだ。大陸のように、国や民族の流動性が高いところだと、そうはいかない。隣の人が、自分とは全く違う文化や思考回路を持っている可能性の方が高いので、相手のことを確認しつつ、自分の考えを詳しく説明する、つまり冗語性がどんどん高待っていくことになるのだね。両言語の背景をしっかり分析できているね。
 家族もしくは家族的な心境は、前提条件を共有していたり、理解しあっていることが多いので、「言わずもがな」が増えてくる。だから、それを敢えて言葉にすると、よそよそしさにつながったり、野暮だと思われたりするのだね。英語の問答パターンがくどく説明くさいと思ってしまうのは、日本人にとって「言わずもがな」のことをきっちり言っているからだ。
 ノンキィさんが指摘したように、慣れ親しんでいるものに対する親和性は大きく、そうでないものに対する拒否反応は大きい。ただ、島国言語も大陸言語も、結局は相手との関係性の上に構築されたものであると考えると、「……だからよくない」と批判することに、あまり意味はないのかもしれないね。もちろん、それぞれに特性があるけれど、それは、場面が変われば長所にも短所にもなりうるものだ。結局のところ、短所に思えるところは、それを使っている人にとっては長所なのだものね。であれば、大切なのは、その特性をよく理解するということ。この総合化はうまくまとまっている。相手が違えば、方法論が異なって当然だものね。また、大陸言語の特質に理解を示すとともに、自分たちの言語を他者に理解してもらう努力も必要になるかもしれないな。

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