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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   一方通行   うさぴょん

 人は二足歩行で手を解放し、その手に道具を扱う役割を持たせ、それを発達した大脳で制御するという方法によって、急速に強い優勢な動物になった。それが言葉とならぶ異常な加速進化のもう一つの理由であったのだが、それはともかく、強くなったために狩る立場に立つことはあっても狩られる側にまわることはほとんどなくなった。そして、最近では事故や病気で死ぬことさえ最小限に抑えられ、現にわが国などは、平均寿命において世界一の数字を誇っている。医学という蓄積可能な知識の体系によって死亡率を下げることが比較的容易であることはあきらかで、それに対して伸びた寿命の中身を充実させて幸福な老後を送ることは大変に困難らしいが、ここではそういう面には触れないでおこう。いずれにしても、われわれは狩られる感覚をすっかり忘れてしまった。だから自分より強くて速い相手に狩られることはそのまま極端な不幸であるという単純な認識にこりかたまってしまっている。
 二足歩行というのは大昔の人類にとって夢だったのかもしれない。(長文実例)しかし、もしかしたらいつの間にか体がそうなっていたのかもしれない。どちらにせよ、二足歩行によって可能になったことは——両手を使えるようになったことだ。両手を使えるというのがどれほどの効果を出しているか、私たちは日常的に深くは考えていない。太古の昔を過ごした人類にとっての第一の利点とは、武器が使えることである。足は走りながら、手は武具を操ることによってより獲物が捕りやすくなった。槍で突き刺せば一撃で仕留めることができる。槍を投げれば離れたところからの攻撃ができる。槍という武器一つだけでも多大な力をもたらす。さらに、捕獲の簡易化と同時に脳が刺激され、様々な生活の知恵を身につけていく。これは確かに人類の進歩と言えるだろう。しかし、その知恵によって人類は進化しすぎたかもしれない。私たちは狩ってばかりいないだろうか。私たちは採ってばかりいないだろうか。私たちは一方通行な立場にいないだろうか。果たしてそんな立場に立っていることはいいことなのだろうか。
 そんな立場の良くない理由、それは「自分に跳ね返ってくる」ということだ。みなさんは家庭の食卓を大きく騒がした牛肉のBSE問題を覚えているだろうか。今週中にも輸入再開時期について正式に決定するとの方針のようだが、発端はといえばなんだったのだろうか。発生した国から輸入が盛んだったのは、日本の国産牛と比べ値段が安かったからだろう。コストを低くするためには、効率よく育てることが肝要である。そのためには必然と抗生物質入りの配合飼料や大量飼育、機械的(=人の手をかけない)飼育などが要求される。それのもたらす効果といえば周知の事実である。けれども、その代償として払わなければいけないものは非常に大きいのではないだろうか。今回、安さと引き替えに懐から取り出されたものは「安心」である。ローコストな肉牛の飼育に欠かせないものは「抗生物質入りの配合飼料」と書いたが、このエサが肉骨粉であったわけだ。肉骨粉とは牛の骨を砕いたもので、要するに牛に共食いをさせているのである。それが異常を起こさせているというのだから、まさに自分たちに跳ね返ってきているわけだ。
 人間が狩るだけの立場にいると考えられる理由は他にもたくさんある。だがしかし(駄菓子菓子/笑)、その中で一番分かりやすいのが「家畜」や「養殖」である。私たち人間は、何かを食べないと生きていけない。薬や点滴、つまり栄養だけで生きていけると考える人もいるかもしれないが、その元をたどれば結局は自然界に行き着くのである。さて、家畜をメインとするが、家畜の定義とはなんだろうか。家畜は、食べるため専用(それも人間のみ)の生き物なのだ。食べるため専用ということは選択肢——生きる選択肢がないということである。普通ならば、生き方は自らの行動と他の生物によって決まるが、家畜には選択肢がない。ブロイラーを例にとってみよう。ブロイラーとは「ブロイル(丸焼き)に適する食肉用の若鶏(わかどり)。日本では、養鶏のひなをほとんど運動させずに、配合飼料で四〇〜七〇日間育てたものをいう。」と大辞泉では定義されている。「食肉用」と書かれているとおり「食べるための肉」なのだ。食べるためだけに生かされている鶏なのだ。本来ならば、虫を捕り、他の動物に食べられるということになっていたかもしれない。もしかしたら、人間に殺されるよりも長く生きることができたかもしれないし、人間に飼育されるより短い命だったかもしれない。どっちにしても、自分の生き方を阻まれているのだ。それは、動物では考えられないことである。自分より弱いものを食べ強いものに食われる、それが弱肉強食をモットーとする自然界の摂理ではないだろうか。それを覆されると何が起こるのか。———死に対する危機感がなくなるのである。
 視点を私たちの生活にしてみれば、風邪を引いたときのことが挙げられるかもしれない。風邪を引くと熱が出て、体が食べ物を受け付けない。ましてや、動くことができないときもあるだろう。そういうとき、私たちは改めて実感するのだ、「体が資本」であると。健康を意識するのもこんなときではないだろうか。普段は何気なく過ごしていても、病気にかかると「いかに健やかに過ごす」かというのがはっきりと思い出させられる。皮肉にも病気にかかって健康が見えるということだろうか。ただ、自然界はこれが日常茶飯事なのである。もちろん病気にかかるかからないではなく、「生」と「死」の狭間をうろうろしていることである。動物はいつ「死」が訪れるか分からない中で「生」を明確に認識しているのだと思う。これに対して人間は、我が国の寿命の長さから言ってもぼんやりとしていて「生」がどれだけ大切かということを深く考えてはいないのではないだろうか。かく言う私もその一人なのだけれど。「影」があるから「光」が見えるように、「黒」があるから「白」が目立つように、「死」があるから「生」を充実させることができるのではないだろうか。
 だからといって、いつも「死」を考えているとそれは杞憂に終わるわけだが、考えないよりずっといいのではないだろうか。「死」を直視してこそ「生」を見つめ直すことが出来るのだろう。もちろん、これは身内の死、動物の死を間近で見ることのなかった私が言うのだから、説得力はないかもしれない。本当に死ぬことを意識したことなんてないのだろう。けれども、その備えとしてこういう持論を展開させるのは決して無駄ではない。片方のぼやけた「生死」ではなく、どちらもしっかりと見据えられる広い視野を持ち、一方通行な立場から抜け出したいものである。

   講評   nara

(チョットコワイカモ!?) 豊富な具体例や検証を用いて、説得力のある意見文にまとめられたね。私たち大人とくくられる年代でも、死を身近に感じるということはあまり多くはない。うさぴょんさんたちの年代の子が扱うテーマとしては、とても難しかったと思うよ。まとめの段落で正直に書いてくれたように、まだ自分自身の納得や実感は少ないかもしれない。しかし、まずは抽象概念を理屈で理解しようと心がけること、これはとても大切だ。この心がけがあってこそ、実体験がそこに重なったときに、より深い理解や真実を得られるだからね。そのためにこそ、人間は理屈を考えるための脳を発達させたとも言えるかもしれないぞ。
 第1理由:BSEの問題、アメリカ牛の輸入再開など、タイムリーな話題を組み込めた。人間が家畜として「食べるための生き物」を育てたことで、例に挙げた牛の中でも「他の生き物を食べ、他の生き物に食べられる」という関係が崩れてしまったのだね。同種のものを食べるということは、生き物としてはかなりイレギュラーであると言えるだろう。
 第2理由:これもおもしろい題材。語の意味も加えたことで、「食肉用」という意味が突きつけるものに目を向けさせることができたね。ただ、この話の後半から「人が」死に対する危機感を失うというところがやや飛躍していないかな。
 今回はなんといっても「一方通行」という視点を見つけ出せたことが、意見を強くしたね。「食物連鎖」という言葉があるように、鎖のようにつながり、連なっているはずのことが、一方方向にしか進まないとしたら、それは大きなゆがみを生じさせるはずだ。力強い、いい意見が述べられた。

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