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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   いまさらだけどあそこにどうして便座を捨てたのか謎。   えせよ

 子供の遊びは多くの想像力や抽象思考力が入ってくるからきわめて多彩なものになる。三歳ごろから低学年まではとくに「何なにごっこ」がさかんになる。ひとつの遊びを「発明」すると、かなりの間同じ遊びを変化をくわえながらくりかえす。男の子同士の勇ましいあそびでも、女の子どうしの静かな遊びでも、同じこころの世界に遊んだ者同士としてこうした幼友達の味は一生忘れられないものとなる。おそらくそれはのちの交友、恋愛、結婚などという対人関係の基盤をつくる力をもっているのであろう。また、ルールに関して5歳くらいまでのこどもはすこしも強制されたものとは感じず、ただ面白いモデルとしてうけとめられる。5歳以後になるとルールは神聖でおかすべからざるものとして受け入れられ、11、12歳ごろになるとルールは皆で協定を結んで作ったものだということがわかってくるので、それを受け入れるのは外からの強制とは感じなくなる。このような社会性を発達させるために遊びは重要である。まやこどもが大人の卑小な現実を乗り越えるために、学校の国語教育も大切であることがわかる。
 子供時代のあそびから得るものは多い。私が小学生のころ、「宮川(近所の川)をきれいにしよう」みたいな授業があった。まあ簡単に要約すると「環境」とかそういうアレだ。一般的にはあまりない授業ようだが、わたしのときには週6時間ぐらいこれがあった。それの一環だかで、何だかよくわからないけどそこに真冬に入って掃除をする事になったのだった。師走の寒空の下半そで半ズボンで近所の汚い川(コンクリート舗装済)にはいる小学生たち。わたしも最初はなんかもうグダグダ感満載だった。しかし、つぎつぎと水揚げされる自転車、タイヤ、空き缶・ビン…なかには便座なんて大物もあった。うえからさわやかに声援をおくる近隣の人々。それらに異常な喜びを覚えたときのどこまでも蒼い空。(すでに寒さであたまもぼうっとしていたためか)なんらかの巨大なエネルギーに取り憑かれたように夢中になってひろった12の冬…そして地上にまたはいあがって数分後、あまりの体の冷たさに我に返り、私達にのこされたのは壮大な喪失感と山積みのゴミだけだった。そして私は学んだのだ。「ポイ捨てはダメ、ゼッタイ。」と。
 しかしながら、勉強にまなぶものも多い。もしもかぐや姫が勉強をまったくしない、遊んでばかりの怠け者だったとしよう。どうやってあいてを諦めさせたら良いかもわからない。この世に存在しないなんかアレ(竜の玉とか)も思いつかない。で、あげくのはてには「ねぇもうしつこいぃ〜!かぐやはヤダっていってるでしょぉ〜!」とぞなむのたまひけり、帝も閉口するに違いない、よ。ってアレ?なんかちゃんと断れちゃってる…?いや、でももしかぐや姫がこんなんだった場合物語の神秘的なイメージは台無しだし、老夫婦も見捨てたにちがいない。そう、だからなんかもうとにかく学習は大切だというはなしだよ、うん。
 確かに、勉強もあそびも、どちらも大切なものなのだろう。そんなことどっちが大切か決めろなんてきっとできないとおもう。正直どっちも必要不可欠なのだ。だからちょっと論点をずらしてみよう。みんな何の為に学ぶのか、遊ぶのか。まあ勝手な憶測でくくってしまって悪いが、たぶん「幸せになるため」だと私は思う。「人間というものは、結果からことのよしあしを判断する」という名言もあるように、とりあえず結果、つまりここでいう幸せにどうやったら最短距離で到達できるかを考えてそこで勉強するか遊ぶか決めればよいのだろう。って結局結論はでなかったのだけれど、川へのポイ捨てはホントもうやめた方がいいと思うよ。

   講評   miri


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 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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