言葉の中で、「馳走」「遠慮」「結構」「世話」などの語は本来の漢字の意味から行けば今現在使われている意味とは異なっている。これらの言語は話し言葉として使われているうちにだんだんと意味がずれ、今のような使い方をする様になったのだと思う。言葉の正しさを論ずる時、語源が引き合いに出されることが多い。が、今の社会に合わせていちいち言葉を変えて使っていると数年経てばものの材料が新しい素材に変わり、そのたびに何度も名前を変えなくてはいけないのはかなり大変である。その言語意識を作り上げるのは、結局その人の受けた教育なのではないか。私は社会の実態に合わせ次々言葉を変えるべきではないと思う。
その理由は第一に、頻繁に言葉を変えると国民の中で混乱が起こったりするからだ。例えば・・・身近な例で言うと黒板がある。教師が『This is a black board.』と言いつつ指差しているのは最近塾などで使われる(学校も時々。教室の壁にくっついているのは黒というか緑板)ホワイトボードだったりする。『先生それ白だよ!』と突っ込む生徒がたいてい一人はいるのだが(笑)、このように昔は言葉通りの姿形をしている物だったが近代の社会では新たな原料を使ったモノになっている物体も少なくない。枕木はまだ本当に木の物があるし、かといって枕コンクリート、枕○・・・といちいち使い分けするぐらいなら統一して昔ながらの呼び名(?)枕木で良いと思う。ちなみに私は枕木が何か今日まで知らなかった(・・;)。
その理由は第二に、昔から日本人に慣れ親しんできた言葉のほうがずっと愛着があって使い易いからだ。外来語を取り入れまくっていても使い難かったら昔のままのほうが良い。ちょっとカッコ良く『クリーニング』とか『センター』とか言うよりも『洗濯』『中央』の方が根付いているので実感がわきやすいのではないか。言葉とそのものの状態が一致しなくても伝わるし、想像しやすい。コロコロ変わっていく言葉をそのたび覚えて話の中で使い回すのにはどのくらい努力しなければならないのだろうか。考えただけでも頭がおかしくなりそうだ。例えばデータ実例にあるように外来語の定着度は『バックアップ』という言葉の割合が一番高い。バックアップを日本語訳すると万一の場合に備えてデータを保存しておくことらしい。こんなに長い文章を毎回言っていたら何度か舌を噛むハメになりそうだ。次に多いミスマッチも不適当な、不つり合いな組み合わせという意味らしい。これはミスマッチだなぁ、と言うだけで『これは不つり合いな組み合わせだなぁ』とどうしても元の文より長くなって面倒になる。どうして日本人は外来語を使いたがるのかはともかく、枕木は本来の名前のまま通した方が使いやすさとしては良いはずだ。多少意味合いが違っても気にしない、気にしない!
確かに実態と意味が一致していないのはなんとも不愉快な感じなのかもしれない。白なのに黒、靴なのに下駄箱・・・。だがしかし、自分の心のうちに持っていないものは何一つ自分の財産ではない、と言うようにしっかりと文化的に定着した言語の方が分かりやすい場合がある。会話などでも自分に馴染んでいる言語を使う癖のような物が付いてしまっているのだと思う。私はこれからつり革はつり革、黒板は見た目と違和感があっても黒板として通して使っていこうと思った。