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作文教室の丘から 小学生、中学生、高校生の作文 (編集)

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   生きてください   ノンキィ

 生命とは、何かのことで一瞬にして消えていってしまうものである。これ以上大事なものはないと信じて大切にしていたものでさえ、一瞬にして離れ去り、二度と戻ってくることはない。
 2006年を表す漢字は“命”。先日、日本漢字能力検定協会が発表した。命について深く考えさせられる年であったということか。自然界には食物連鎖という普遍の輪が存在する。従ってどの生き物も同様に、常に死と隣り合わせの生活を送っている。しかし、数千年前地球上に現れ、あっという間にヒト王国を築きあげた人類は、いまや死に対して非常に疎遠な関係にあるといえる。その結果私達は、遠ざかった分得体の知れぬものとなった死への間違った認識を持つようになってしまった。核家族化や平均寿命の伸びに伴ってさらに死を日常的に感じることのなくなった現代、一年を代表する文字として“命”が選ばれることに、これからの人類の生き方を考えてみる必要がある。(主題)
 第一に、現代の日本人に欠けているものは死に対する知識や認識であると思う。今年は私とほぼ同学年の子供達が自殺するという、胸を痛める出来事が相次いだ。新聞に掲載されたある少女の遺言状には、“生きていくのが苦しい。死んだ方がましだと思う。”という言葉があった。現代人は多かれ少なかれ、誰しもが生きる苦しさを味わっているのだと思う。けれど、なぜそれが“生きるのが苦しい=死ぬ”という構図につながってしまうのだろう。人の命の重みを感じさせない、あまりにも単純な方程式。死というのは生の延長線上にあるものに違いないが、決して生の代用品ではない。そんな風に考える中で、この間見たクリント・イーストウッド監督の“硫黄島からの手紙”が思い出された。手榴弾で自らを、あるいは爆撃に命を奪われた兵士達。たとえ演技とはいえ、彼らは死ぬ瞬間まで生に執着していた。生き抜きたい。ただそれだけの思いが、儚く次々と硫黄島に散っていった。それから60余年が経ち、液晶画面の中で思いのままに命を扱うことが出来るようになった現代。そんな時代を生きる私達が、死というものについて考えることは、あっけなく失われてゆく幼い命を守るためにも無益ではないはずだ。(方法一)
 次に、他との関係性の上での一つの命の価値に対する意識の欠如も、問題として取り上げるべきだろう。個人的な見解ではあるが、私は自殺をする人は自分勝手だと思う。“人間は社会的動物である”と古代ギリシアの哲学者、アリストテレスは言った。人は他者との関係なしに社会生活を送れない。また、地球上どの生物の命も、過去と現在、そして未来時間軸を構成するひとつの流れである。死がもたらす影響は、ある一点に限ったものでは決してない。その人は生きる苦しみから逃れられると思うのかもしれないが、残された人に更なる苦しみを背負わせること権利はない。自らの命の終幕が、いったい何人の人の心に影響を与えるのか考えたことがあるのだろうか。自殺を決意するほど辛いものを背負った人を、あるいは死んでしまった人を責めようとは思わない。ただ、生と死の淵を子供が容易に越えることをどこかで黙認する現代の社会に、憤りを感じる。(方法2・伝記)
 もちろん、無限大の未来を前に命を絶とうというのだから、それには計り知れないほどの苦悩があったのだろう。死ぬという選択肢すら頭の中にないのんきな私には到底理解できないものが。それなら、前述したように矛先を向けるべきはその苦悩を背負わせる社会全体であろう。そもそも、死にたいと思わないことをのんきだと思ってしまうこと自体が、今日の日本の尋常でないさまを物語っている。“雑草とは、まだその美点が発見されていない植物のことである”という名言がある。本来ならば草むらに目立たず生えている、生きるという当たり前の意志。その美点が浮き彫りにされているということが表す意味を、私達は各々考える必要がある。—僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る—高村光太郎の言葉を胸に、私の命が疲れ果ててしまうまで道なき道を生きてゆきたい。あなたもどうか、生きてください。(主題・名言・詩)

   講評   nara

 昨年を象徴する漢字一文字が「命」だったこと、このこと自体がまとめにもあるように、今の日本の「尋常でないさま」の象徴でもあるのだろうね。生きていることが当たり前のことであり、大切なこと、それを声を大にして叫ばなければならないほど、切実な状況があるということだ。テレビや雑誌、新聞で、命の大切さを多くの人が訴えていた。どの言葉も強い思いがこめられていた。なのに、それが伝わらないのはどうしてだろう。その深い暗闇がどうして生まれ、そこに光は届かないのか? 考えると辛くなるけれど、考えることと声をあげることを投げ出してはいけないのだね。
 『硫黄島からの手紙』は、アメリカと日本との共同作品だということもポイントになりそうだね。私たちの祖先(というほど、昔のことではないけれど)は人の命を奪い合うということを是とした行動をとった。私たちはその歴史をどう自らに取り込むか、今、試されているのだろう。同じ経験はできないし、戦争を経験しないことを誇りにしたい。だけれども、その歴史からは多くのことを学ぶ義務がある。現代、命が軽んじられているのは、「今」だけを見ているからかもしれないね。
 ノンキィさんの作文からは、どんなに辛かろうと命を軽んじてはいけないという、静かな怒りのようなものが伝わるよ。それは、自死を選ぶ本人、身近な人、社会などへ向けられた怒りなのだろうね。怒りは憎しみとは異なる。この怒りをどう行動につなげるのか、ここが個々に向けられた課題となるのだね。

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 しかし、子供たちの実力はそれぞれ個性的です。上手に書けている子の作文を見せて、自分の子供の作文と比較しないようにお願いします。

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